「笙〜、今夜台所貸して」
ある朝、唐突にそんなことを言い出す同居人、結城和哉の言葉に眉をひそめるのは、この部屋の主でもある秋月 笙(しょう)。
「何をするつもりだ?」
「・・・ケーキ、焼こうかと思ってさ・・・」
ダイニングのテーブルに肘を付きながら、両手でマグカップを包み込むように持ち、コクリと一口飲みながらそう答える。
「・・・何のために?」
キッチンのカウンター越しに聞く笙の声は、どことなく不機嫌に聞こえる。
「なにって・・・何でもいいだろ?」
「・・・・・・・」
家事を趣味としている笙は、絶対に和哉を台所に立たせることすらしない。
ちょっと拗ねたように答え、和哉はマグカップを置いて立ち上がった。
「んじゃいいよ!深見さんとこで借りるから」
その名に、ぴくりと笙が反応する。
「・・・どうしてそこで直紀の名前が出るんだ?」
「深見さんなら笙みたいな意地悪言わないし」
「・・・言わないし?」
「優しいし」
「・・・・・」
「・・・とにかく、オレ今夜は深見さんとこ行くから」
隣の椅子に置いたカバンを取り上げ、
「行ってきます」
と乱暴に言い置いて出て行く。しばらくして、玄関のドアが荒々しく閉まる音が部屋中に響いた。
「なんだよなんだよ!笙の奴!」
苛立つ心そのままの足取りで階段を勢いよく下りて行く。だがあまりに勢いがよすぎて、途中の踊
り場を回った所で足を滑らせ、思わず落ちそうになる。
「おっと」
それを、不意に伸びてきた腕が支え、和哉はその腕に倒れこむような形でなんとか体勢を整えた。
「すいませ・・・深見さん!」
お礼を言おうと顔を上げた先、優しく笑うその人物に、和哉は驚いた声をあげた。
「和哉くんか。これからバイト?」
「あ、はい。ありがとうございます。・・・あの・・・お願いがあるんですけど・・・」
「なに?」
「今夜、台所貸してもらえませんか?」
突然の申し出に、その人物・深見直紀は最初何のことか分からないように和哉を見つめ、それから
何かに思い当たったように小さく微笑んだ。
「いいよ、いつでもおいで。・・・笙には却下されたんだろ?」
その名を聞いた途端にムッと表情を歪め、力強く頷く。
『・・・それでも、笙の為に何か作ってやるのか・・・』
内心でクスリと笑い、直紀はポンポンとあやすように和哉の頭を軽く叩いた。
「深見さん・・・?」
「幸せ者だな、笙は」
その言葉をどう取ったのか、和哉は真っ赤になって一礼すると、また慌てて階段を駆け下りて行った。
「待ってるよ」
その後姿に声を掛け、直紀はゆっくりと階段を上がり始めた。
一方部屋に残った笙は、乱暴に洗い物の続きを済ませながら、溜息をついた。
和哉とけんかをするのはいつものことだし、その事自体はたいして気にならないのだが、何故今日に限って直紀の所に行くなどと言い出すのか。
その時だ。
玄関のチャイムの音に、何故か嫌な気分になる。
心のどこかで、出なくていいと叫ぶ自分がいる。・・・が、鳴り続けるチャイムの音を無視し続けられ
るほど、笙は我慢強くなかった。
「どなた?」
不機嫌をあらわにした声で、乱暴にドアを開ける。そこに立つ人物に、笙は果てしなく後悔した。
「よう、おはよう」
「・・・何の用だ?」
「今そこで和哉くんに会ったぞ。今夜台所貸して欲しいって頼まれたから、いつでもおいでって言っといた」
笙の問いは完全無視の上、勝手知ったる他人の家とばかりにずかずかと上がりこむ。
「おい、直紀」
「心配ならお前も来たらどうだ?」
リビングから響く声に、笙は諦めたように溜息をついた。
「和哉くんは、お前の為に何か作るつもりなんだろ?」
ソファに腰掛け、今にもタバコに火をつけようとする直紀に言い放つ。
「ここは禁煙だ。何度言えば分かる?」
「ああ、そうだったな」
しれっと言ってのけながら、くわえたタバコをもとに戻す。
「お前、明日がバレンタインだって知ってたか?」
意味ありげな笑みで笙を見つめ、直紀が問う。笙は僅かに視線を泳がせながら、直紀の向かいのソファに腰を下ろした。
確かに、世間が妙に浮かれているのは知っている。
笙ほどのいい男を世間の女性達が放っておくわけもなく・・・
確かに毎年、迷惑なほどのチョコレートを貰いはするが・・・
「付き合い出して初めてだろ?和哉くんなりに祝いたいのさ」
「・・・・・・・」
そんなこと、考えてもいなかった。
和哉が、自分にチョコレート(もしくはそれに類するもの)をプレゼントしようとしてくれているなど。
「いじらしいじゃないか。そんな気持ちも分かってやらん相手に・・・」
はあ〜っと殊更大仰に溜息を吐いて見せながら、チラリと上目遣いに笙を見やる。
何事か考えているように、深く眉間にしわを寄せるその表情に小さく苦笑し、立ち上がった。
「ま、そういうわけだ。帰りはオレが送るから心配するな」
実のところ、直紀は和哉を誘いに来たのだ。
もっとも、直紀の一番大切な恋人に頼まれての事だが。
「その方が心配だ。帰りはオレが迎えに行く」
聞こえていないかと思ったら、しっかり返事が返ってきた。
「じゃ、そういうことで」
背を向けて出て行こうとする後姿に、笙は不審に思って声を掛ける。
「・・・お前、何しに来たんだ?」
「ああ、用事は済んだから来ることなかったんだけどな。一応報告に」
その言葉の意味を理解したのは、直紀がドアの向こうに消えてしばらく後のことだった。
その夜、深見邸。
「いらっしゃい、和哉さん!」
笑顔で出迎えてくれたのは、直紀の恋人の拓海。実は笙の弟で、顔立ちはやはりよく似ている。
とはいえ、拓海のほうが100万倍くらい可愛げがあるのだが。
「こんばんは、拓海くん。ごめんね、突然」
「とんでもない!僕のほうがお願いしたかったんですから」
屈託のない笑顔で言われ、和哉も微笑んだ。
買って来た材料を並べ、エプロンを着けて、準備はOK。
「和哉さんは何を作るつもりなんですか?」
「・・・チョコレートケーキ。あれで笙、ケーキとか好きなんだ・・・」
甘いのは苦手みたいだけど・・・と少しはにかんだように笑う和哉はとても幸せそうで。
兄弟とはいえ、幼い頃に離婚した両親に別々に引き取られた笙と拓海は、お互いの趣味趣向など知るわけ
もなく。
「・・・僕にも、作れるかな・・・」
「もちろん!一緒に作ろうよ」
仲良く台所に立つ二人の姿を満足げに眺める人物が一人。
言わずと知れた、この家の主である。
「美人が2人、台所に立つ図ってのもいいもんだな」
「深見さん?」
「直紀はあっち行ってて!」
何を言われているのかわからない和哉と、真っ赤になって追い払おうとする拓海。
クスクスと小さく笑い、言われた通りに奥のリビングへと戻って行く。
「・・・ごめんね、和哉さん」
「あ、いや・・・。拓海くんは、深見さんの為にごはん作ったりするんだ?」
「・・・日本にいられる時だけですけど・・・」
ピアニストである拓海は、1年の大半を海外で過ごしている。
「そっか・・・」
それでも、拓海が少し羨ましかった。
笙の作ってくれる料理はどれもすごく美味しくて、文句の付け様子はないんだけど・・・時々、ふっと思う事がある。自分も、笙の為に何か作ってあげたいと。
だから今日は、バレンタインを口実に、笙のためだけにケーキを焼こうと思って・・・
「なのに笙のやつ〜!」
朝のことを思い出し、またまた怒りが湧いてくる。
その隣で、拓海がクスクスと笑う。
「・・・僕は、ずっと兄さんといられる和哉さんが羨ましい。ないものねだりですね、お互い」
「・・・・・・・」
ずっと一緒にいたいと思っても、それを叶えられない拓海と。
美味しいものを作ってあげたいと思っても、それを叶えられない和哉と。
「・・・似たもの同士かな、オレ達」
そう言って和哉が微笑むと、拓海も小さく微笑んで頷いた。
そうして出来上がったザッハトルテは、愛情ぎっしりの特別製。
大事に箱へしまえば完了。
「明日の本番を待つばかり」
出来栄えに満足し、和哉は腰に手を当ててウンウンと頷く。
と、来客を告げるチャイムの音。
「・・・誰だろ?こんな時間に・・・」
時計はすでに、午後11時を回っていた。
「やっば!オレ帰らなきゃ!」
「こんな時間に?泊まっていけば・・・」
「・・・でも、朝一番で笙に渡したいから・・・」
少し照れたように呟く和哉に、その気持ちが分かりすぎる拓海は頷いた。
「そうだね・・・。あ、じゃあさ、直紀に送ってもらったら・・・」
「え、いいよ。まだ電車もあるし」
「でも・・・」
その時だ。
「帰るぞ、和哉」
聞きなれた声が台所の入口から降ってくる。
「・・・笙・・・?」
「まったくいいタイミングだな。これから連絡してやろうと思ってたのに」
「お前のトコなんかにいつまでも居らせられるか」
「信用ないな〜」
「とにかく、用事はもう済んだんだろう?帰るぞ」
和哉が大事そうに抱えたケーキの箱をチラリと見やり、笙はさっさと背を向ける。
「あ、笙!」
慌ててその後を追おうとして、残される拓海と直紀にペコリと頭を下げた。2人は笑みを浮かべ、そんな和哉を見送った。
「・・・兄さん、独占欲強すぎだよ・・・」
2人の消えたドアを見つめ、拓海は小さく呟いた。
車に乗り込むと、殊更気まずい雰囲気が漂い始める。和哉は膝に置いた箱をぎゅっと抱きしめ、チラリと運転席の笙を見やる。その横顔はキリリとしていて、思わず見惚れてしまうほどだ。
そんな自分にハッとし、思わずブンブンと頭を振る。そんな和哉を視線の端に止め、笙はどこか分が悪そうに呟いた。
「・・・今朝は、悪かった・・・」
「え・・・?」
思いがけない言葉に、和哉は何も言えない。
「お前の、気持ちも考えずに・・・」
「・・・笙・・・?」
誰もいない静かな夜道で車を寄せて止めると、笙はハンドルにもたれかかるようにしながら、じっと前方に広がる闇を見つめ続けている。そして和哉は、そんな笙の横顔を。
沈黙のまま、時だけが過ぎていく。
不意に、それを破るようなアラームの音。
自分の腕時計だと気付き、和哉は慌ててリセットした。
午前0時。日付は2月14日に変わっていた。
ふと、笙の手が和哉の膝に置かれていた箱を取り上げ、後部座席へと移動させる。
それを視線で追う和哉の頬に笙の手が触れ、やがて唇が塞がれる。
・・・そっと、触れるだけのキス。
「笙・・・」
呟く名を封じるよう、再びのキス。
今度は少しだけ、長く深く。
「今日のデザートは、決まりだな」
甘いキスに酔っている和哉に、笙は優しくそんなことを囁いた。
そして和哉を抱きしめ、その柔らかな髪をくすぐるように指を絡め、唇で触れる。
「・・・笙・・・」
熱を持った声で名を呼ばれ、笙も自身が熱くなるのを感じた。
「・・・連れてって・・・あそこがいい・・・」
2人が、初めて体を繋げたあの場所へ。
気だるく横たえた体に、朝の光が容赦なく降り注ぐ。
真夜中、もてあます熱を抱えた体は、ただお互いを欲していた。崩れるようにベッドへと身を落とし、そのまま激しく抱き合った。
カーテンのことなど、まるで気にも留めないままで。
「ん・・・」
眩しさに目を細め、ゆっくりと和哉が目を覚ます。
隣に横たわる笙は、まだ眠っているようだ。
「・・・・・・」
そっと、唇に指先を這わす。形のいい薄い唇は、少しだけ乾いていて・・・和哉は自分の唇を舌で濡らし、そのままそっと触れ合わせてみた。湿り気を帯びた笙の唇に満足したように、和哉はゆっくりと身を起こす。それでも、腰の辺りに走る鈍い痛みは否めない。
久々の逢瀬で、嬉しくて。
笙が、自分に触れてくれることが。
「・・・大好きだよ。笙・・・」
小さく呟いて、ベッドを下りた。
脱ぎ散らかしたままになった服を着込み、階下へと降りていく。
広すぎるホールを抜け、玄関を出た。
山の上に位置するからか、少しだけ冷たい風が頬を打つ。
胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込むように、大きく深呼吸を繰り返す。そうして大きく伸びをしたとき、後ろからそっと抱きしめられた。
「笙・・・起きたんだ」
「ああ。・・・お前が居なかったから、驚いた」
苦笑しながら告げる笙の唇に軽いキスを送り、和哉も微笑む。
「あんまり、天気がよかったから」
「そうか・・・」
抱き合ったままの二人の間を、ゆったりと風が渡っていく。
「・・・おなか、すいたな・・・」
思い出したように呟くと、笙は抱きしめていた和哉を解放し、言った。
「今日は、お前の料理にしよう」
「え・・・?」
「うまいもんじゃないと、食わないがな」
少しだけ意地悪に、笙は告げた。
「・・・オレ、作っていいの・・・?」
和哉の不安そうな問いに、笙は黙って頷いた。
それに、見る見る和哉の表情がほころんでいく。
「・・・っしゃー!すぐにすっげーうまいもん作るから!」
嬉しそうに、玄関の方へと一目散に駆けて行く。その後姿を見送り、笙は自嘲気味な溜息をひとつ。
今日の料理の結果によっては、台所の使用を許可してもいいか・・・と。
そうして差し出された料理は、どれもすごく美味しくて。
笙は、先程考えていたことを和哉に告げた。
和哉は最初すごく驚いて、何度も笙に確認して、それから飛び上がりそうなほどに喜んだ。
食事を済ませ、デザートに和哉の作ったケーキを食べて。
のんびり穏やかな時間はあっという間に過ぎ、いつの間にか夜の闇が辺りを覆い始める。
「・・・そろそろ帰るか・・・」
そんな笙の呟きを合図に、二人は車に乗り込んだ。
「なあ、笙・・・」
「なんだ?」
「・・・来年もさ、こうやって過ごしたいな・・・」
「もう今から来年の話か?」
呆れたように、だが笑みを含んだ口調で言う笙に、和哉は力強く頷いた。
「来年も、その次も、ずーっと笙はオレと一緒に過ごすの」
売約済みだから。と笑う和哉に、笙もそうだな・・・と答える。
幸せな幸せな、恋人達のバレンタインが終わろうとしていた・・・
end
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