2002/12/22(水)
Aquarium〜夢魔の見る夢〜

※ この小説は、2004/12/30発行、同人誌「Aquarium〜夢魔の見る夢〜」より一部掲載をさせていただいております。

六月二十七日 水曜日 雨のち晴れ 更待ち月・二十日月

 鉛色の空、朝から降り続いている雨は、午後になっても一向に止む気配を見せようとしない。
 普段見慣れている交差点では、信号が変わると流れように色とりどりの傘がひしめき合い、十字路で所狭しと華を開いている。
 重い足取りのスーツ姿のサラリーマンや制服姿のOLに混ざって、ラフな格好で軽快に歩く若者の、それぞれその個性にあふれた傘。透明ビニール傘、黒い傘、色とりどりの花柄やデザインされたものが、決められた道を、規則的に歩いている。
 そう云えば、こんな風景を以前見た事があった。ただあまり変化せずに流れる人並みを見ながら、どこで見たのかを考える。
 ああ、水族館だ。いつ行ったのか、それが遠足だったのか、家族旅行だったのか、それとも以前つきあっていたデートで行ったのかすらもう覚えていない。そんな漠然としか覚えていない風景に似ているんだ…。色とりどりの魚たちが水流に沿って、何を考えているのか判らない顔をして、ただ淡々と泳いでいる姿。
 進む方向はあっても、何故、どうして進むのかなど考えずに…。
 それじゃ、今の俺か。何の当ても無く、周りが決めた道をだらだら進んでいる、そんな自分に。
 深い溜息を付きながら、木下克美は雨で曇っている窓の外を眺めていた。
 梅雨だと判っていても毎日じめじめしていて鬱陶しい日が続くと、気分までが鼠色に暗くなってしまう。営業なんて仕事をしていると、雨だけでもうんざりしてしまう。まして、仕事が上手く行っていない今日みたいな日はよけいであった。
 会社に戻る気にもなれず、何となく救いを求めるように入ったインターネットカフェ。
 朝から全く止む気配を感じさせない雨の中、飛び込みで入った会社で素っ気ない対応をされるように午前中の営業を終えた。それから、会社へその報告メールを出す…、そんな名目をつけて、ちょっと前に見つけたお気に入りのインターネットカフェで遅いランチを取りながら、少しだけくつろいだ昼下がりを迎えていた。
 高校や大学の授業でパソコンを使ってはいたけれど、特に興味がなかった克美にとって、ネット環境が整っている店や、インターネットカフェが街の至る所があるのは不思議でならなかった。けれどそのおかげで、会社に戻りたくない気分の時、ちょっとした報告などのメールを打つのが楽になり、喫茶店で時間をつぶすよりも堂々と店に入れるようになった。
 そんな風に感じているのは克美だけでは無いらしく、店の客を見渡すとスーツ姿を何人も見かけられる。ご同輩の多さに、仕事でここに来ているのだ、そんな安心感があった。
 たまたま何処かで時間をつぶそうと思っていた時、立ち止まったビルの三階で、隠れ家風のインターネットカフェという看板に興味を持ち、入ったのがきっかけだった。インターネットを扱った入ったことは、今まで無かった。ちょっと前までカラオケボックスだった店を改築して、今どんどん漫画とインターネットを一緒に扱っている喫茶店が増えているとは、周りから聞いていた。ちょっと前は、インターネットカフェと云えば、PCスクールやパソコン販売を扱った店ばかりだった。勝手な思いこみだったが、何となくじめっとしていたり、スクールに入るか、パソコンを買わないと…、そんなイメージが先に立ち、あまり良いイメージはなかった。
 この店に入った時も、空いた時間の使い方に困り、たいして期待せずに入った店だった。しかし、中に入ると仕事で滅入った気分をリフレッシュ出来るほどの光を取り入れる窓と、ふんだんに置かれた針葉樹。光が反射しないモノトーンで統一されたしゃれたインテリアでパソコンごとに仕切られていて、なんとなくだったが、今までのインターネットカフェのイメージを覆された気がした。
 一人一人の客を考えた店の造りのおかげで、隣がのぞけないようになっている。ただ時間つぶしの場所と云うよりゆったりとした時間を過ごせた。
 それ以上にオフィス街のはずれにあるビルの三階だけ合って、落ち着いた客が多く、店の雰囲気とあいまって大人の落ち着ける空間になっていた。
 その所為か安価を競うように設定されたインターネットカフェより、若干価格は高めに設定していたが、ランチやディナー、酒やつまみも、冷凍を電子レンジで暖める食べ物でなく、なかなか美味しいものが食べられた。
 ここはパソコンとネットワークが使えるだけではなく、一人暮らしの克美が安心してくつろげる、そんな空間が用意されていた。

「よし、出来た。と…」
 営業報告メールの送信ボタンを押し、克美は大きく伸びをした。
 会社に営業で入り、業務必須要素としてパソコン、パソコンと云われ、高校や大学で少しばかりパソコンに触れる機会は合ったが、使えたら良いのだろうな…とは思ってもなかなか手が出せなかった。まして今日出た機種が、三ヵ月後には旧機種になる…、そんな進化の早さに気圧されていた。必要以上にパソコンに興味を持たない克美が、以前上司に不平を呟いたときに、お前、若いんだから、そんなじじくさい事、云うな≠ニ反対に呆れられたほどだった。
 東京からほど近い街で生まれた克美は、都内では多少、名が知れた大学の経済学部をストレートで出た。大学からずっと東京に一人暮らしをしていて、多少有名な総合商社に勤めて、二年、二十四歳だった。しかし、どうしても、世の中のパソコンやネットが当然の様な感覚が理解できなかった。もちろん、仕事の為と、最初は参考書を数冊、買っては見たものの、よくわからない用語の連続に、すぐに挫折してしまいげんなりしてしまった。
 語学は嫌いな方じゃない。英語は中学から好きだったし、第二外国語で選考したドイツ語も同じ大学を卒業したやつより自信があった。しかしパソコンの用語や、それを使う理科的感覚がどうしても好きになれなかった。
「まったく…、どうしてパソコンなんだよ」
 インターネットカフェに入って、パソコンを目の前にして愚痴をこぼすのも変な話しだったけれど、それでもそう愚痴らずにはいられなかった。別にパソコンを使うのが嫌いなわけではなかった。反対にこうやってすぐパソコンが使える環境でホームページや仕事以外のメールをするのは楽しかったし。適当に興味のある検索ワードを入れて、次の営業のアポイントまでの時間つぶし程度にホームページを見るのは好きだった。
 別に何か目的があってネットサーフィンをしているわけでは無かった。最初の内はもの珍しさも手伝って色々なページを見ていたが、特に趣味も無い克美にとって、今は単なる時間つぶしになっている。いつもの様に何処を見たか履歴が判らなくなるくらいに、くるくると画面を移っていた。
 しかし、次の瞬間に画面に映った画像に、思わず克美は動く事を忘れてしまうほどだった。
 子供の様に変にどきどきする。サスペンスな緊張感ではなく、息を飲むような衝撃でもなかったが、理由は判らなかったけれど、何故だか引きつけられている。
 不思議なページだった。ただ月の写真があるだけだったけれど、何故か身近に月があるようなそんな感覚にさせられる。トップページにクレーターがはっきりと写った月が、くるくると自転して行く姿があった。闇の中に浮かぶ白い規則的に回転する月に妙に心が引かれ、その画像をマウスでクリックすると、何枚かの月の写真が飾られている。
 何てこのことのない平凡なページのはずだった。ページは派手な動きはしなかったし、たぶん雅やかでも、美しいと云う画像でも無い。まして、今流行の動く奇麗な加工がなされている訳でない。克美が天体が好きなわけでも無かったどうしてか引きつけられるのかが判らないけれど、何かに引き寄せられる…、そんな画像だった。
 そう云えば昔、何処かで読んだコラムに、時々月を見ているとそこへ帰りたい…=Aそんな風に願う人間がいると書いてあったのを朧気に思い出される。今まで、そんな事感じている人間の気持ちが理解できなかった。けれど、今、ホームページの画像を見ていると、まさにそんな感覚だった。そんな気持ちにさせられていた。
 何かに導かれるようにその日、時間のある限りそのページを見ていた。そして、そろそろ仕事に出かけなければいけなくなると、克美は慌てて手帳を取りだし、月のページのアドレスをメモした。それから、次の営業先に向かうために席を立つ。しかし、頭の中ではまだ月のホームページで書かれていた事が離れなかった。

 今夜の月は二十日月、更待ち月。

 晴れたらどんな月が見られるのかな…、と小雨の舞う灰色の空を克美は振り向き、そして見上げた。

 *  *  *

 昨日の朝から降り続いていた雨が夕方には上がり、見覚えのある形の月が街を照らしていた。
 こうやって意識してみると、空を仰ぐのは本当に久しぶりなような、そんな気がする。帳が降りた街を照らすのは、昼間ホームページで見た画面そのままの月。まるであのホームページを作っている人物が、少しだけ時を越えて撮影したのではないか、と思わせるほど似ている気がした。
 昼に見た画像にそっくりな月に、何処か懐かしさを感じ、克美は小さく溜息を付く。
 総合商社の建築部門で一般住宅用資材を販売する部署での営業は、毎日、頭を下げ続け、客の予定ですべてが決まる、そんな不規則な時間が流れる。だからと云って何かをした≠ニ云う充実した気分にもならないそんな仕事だった。
 確かに出世を考えて、それこそ死にものぐるいで働いている人間もいっぱいいる。けれど、基本的には、組織の駒に変わりないのだと仕事をすればするほど、感じてしまう。いつ、誰が作ったのか判らないマニュアルを元に営業をしに企業へ行く。もしもマニュアルに書かれていない内容が発生した時は、自分で判断せずに上司に相談して、会議でもかけて貰う。そこで決まった通りに対応する。
 テレビドラマや、小説の主人公のようにかっこいいものなんて何もなかった。普通に給料を貰って仕事をしているだけでは、ドラマの主人公みたいにブランドのかっこいいスーツなど買う金もなければ、だだっ広い部屋に住むのもあり得ないな話だった。
 たいした昇級もなく、最近では一万くらいで手に入るスーツを着て会社に向かう。休日はまあ、一週間放って置いた掃除や洗濯。それでなければ、有る程度収入と多少見場が悪くない男と、結婚でも出来ればいいかと考えている彼女とデート…。
 仕事だって、一日のノルマを適当にクリアして、就業時間中にすべきことを終えて帰途に付く。最近はいかに手を抜くか、そればかり考えるようになっていた。仕事が不服なわけではなかった。給与だって飛び抜けてはいないが、男一人で暮らして行くには十分だった。
 大学を出て、仕事をして二年。
 飽きたなんて云ったら贅沢だと判っていても、それでも物足りなさを感じていた。
 克美は溜息を深く付くと、空を仰ぐ。
 空にはこれから日を追う事に痩せていく半月、二十夜月が、流れの速い雲の合間に浮かんでいた。

 このまま家に帰ってしまうのももったいない…、と感じた克美は、いつものインターネットカフェに足を向けていた。一人暮らしの寂しい男の夕飯。家にもパソコンはあったがネットに繋げる作業が面倒で何もしていなかった。
 家に帰っても特にすることのない自分。時間つぶしに丁度良い…、そんな名目を付けながら、本音はもう一度あのページの月を見てみたかった。
 会社帰りのそのままの足で店に着くと、店は克美の予想を反していることになっていて。
 夜はアルコールも出しているのは知っていた。あまり時間が遅くなってから来た事のなかった克美は、混み合った店を見て、少しだけ戸惑いながらウエイターに声をかけた。すると、ウエイターはすまなそうに頭を下げて、克美に満席を告げる。
 克美は小さく溜息を付き、ビルを降りると、近くにあった手頃な店に入って夕飯を食べる事にした。
 初めて入る店は混んではいるが、それでもいくつか食器がまだ片づけられていない、空席が見えていた。
 まあ、しょうがない…、と諦めて中に入ると、やる気のなさそうなウエイターが、少しだけ待たせてから席を案内してくれる。
「こちらで宜しいでしょうか?」
 窓側の四人座りの席をウエイターは指さす。めんどくさそうに頷いた後、席に目線を向けようとした瞬間、克美の背筋をちょっとした緊張感が襲った。恐怖ではない、昼間、月のホームページを見たときのように、自分では何でなのか云い表せない感覚だった。
 克美は、ウエイターのお決まりの態度よりも、案内された席の手前に座っている客の姿が気になってならなかった。別にグラマラスな美女が座っている訳ではなかったが、目を奪われたのは、あまりに印象的な客の容姿に…。
 色素が薄いのか染めているようには見えない、薄い紅茶色のうらやましいくらいにサラサラのショートヘアをノート型のパソコンを開き、信じられない速度でキーボードを叩きながら揺らしていた。それよりも気になったのは、モニターを見つめているグレイにも見える薄茶色の光彩だった。
 髪型と光彩、青白さすら感じる真っ白な肌。そこに座っている人物が、日本人なのか、それとも別の人種の血が混ざっているのかは、全く判断出来ない。不思議な姿が手伝ってか、怖いくらいに奇麗≠ニ云う言葉が合う雰囲気を醸し出していた。
 年齢は、肌の張りや見た目165、6pくらいの身長から中学生か、高校生くらい。きちんとプレスされた白の綿シャツと、作りからして良い仕立屋を使っている黒のジャケットとズボン姿だから、男だとかろうじて解る。もちろん女子がパンツを制服に選べる昨今、男の子っぽい美少女と云う期待も捨てきれないが…。
 これだけ奇麗な少年ならよからぬ事を考える奴もでるだろうな…。そんな欲望すら通りすがりの克美にも感じさせる、そんな容姿を持っていた。

「…、お客様?」
 一向に席に着かない克美を不思議そうに見つめるウエイター。
 その声に、克美はハッとして、ぼーっとしていた事を取り繕うように、手前の席が見える席側の席に着く。そして、メニューを開かずに、一緒に立ててあった特別メニューを見て、サラダ付きの大盛りビーフカレーと、グラス入りの生ビールをウエイターを追いやるように慌てて頼んだ。
 何をしているんだ…、俺は…。
 ウエイターが去ったのを確認してから、下卑た考えをしてしまった自分を取り繕うようにポケットから煙草を探り出し、一服始めた。
 目の前では、薄い紅茶色の髪を微かに揺らして、何か作業でもしているように見える少年。そして反省しながらも、目線をはずせない自分。
 ビールが到着したのを機に、短くなった煙草をもみ消し、視線を窓の外に移した。
 ブラインドの下ろされていない店内から見える街並みは、昼とは全く違った顔を表に出す。克美はぼーっと窓の外を眺めながら、運ばれてきたビールで口を潤していく。
 窓の外では、通り過ぎる人々。足早に帰路に付いているのか、それともこれからどこかに出かけようとしているのか判らないが、皆さっきまで奇麗に華咲かせていた傘を、邪魔な荷物のように持っていた。
 ビルの谷間に見える月は清やいでみえるのに、それを覆うように灰色の雲が流れている。

「…、止めて下さい…」
 静かで、優しいポップスにアレンジされたクラシックが流れていた店内から、いきなり悲鳴のような叫び声が耳に届いてくる。
 克美はその声が聞こえてくる方向を見た。
 目に映る光景は、ナンパか…、勧誘…、そんなところだろうか…。
 どこにでも居そうな、色を抜きすぎて痛みきった髪型をして、吊しで二枚一万円くらいの値札のついてそうな、安っぽいスーツを着た男が二人が、薄く煎れた紅茶色の髪の席に勝手に座り込んでいる様子だった。
 はっきりとは聞こえなかったが、それでも目の前の雰囲気や、微かに聞こえる声から、紅茶色の髪の客が困っている様子が伺える。しかし、それとは対照的に、食らいついたら離さないと云う態度で、男たちはあの手この手を使って口説こうとしているようだった。
 紅茶色の髪は、脅えながらも、必死に逃れようとしているが、とうとう男の一人に腕を捕まれ、席を無理矢理に立たされる。
 そんなごたごた騒ぎに店員は、忙しくそれに気付いていないようすだった。近くの席の客も関わりにならないように、目線だけ紅茶色の髪の少年に向け、ひそひそ何かを話している。
 克美も他の客のように、あまり関係を持ちたくない連中と、関わりたくない光景なのは確かだった。男の目を引く少年がこんな時間にうろついているんだから、自業自得といえばその通りだ。
 それでも、テレビドラマのロケでも見ているように、興味で見ていた克美の目線に、いきなり助けを求めて周りを見ている視線が飛び込んでくる。
 何度見ても不思議な色の光彩。そして、席を立ち、店を出ようとする男たち二人と、紅茶色の髪。克美は小さく舌打ちしてから、立ち上がると、いささかわざとらしいかと思ったが、紅茶色の髪に声をかける。
「ここに居たのか? 気が付かなかったよ…」
「えっ? あの…」
 初めて聞こえてきた紅茶色の髪の人物から聞こえてきた声は、まだ声変わりしていない優しいアルトの少年のものだった。脅えている様に震えながら戸惑っている少年をかばうように、克美は立ち上がる。
「あんたたち、…に、何か用?」
 名の知らない少年の名を早口で誤魔化すように云い、克美は少年の腕を掴んでいる男たちを睨み付ける。少年はすぐに克美がしたい事や状況を把握したのか、腕を掴んでいる男の手を力一杯に振り払うと払うと、慌てて後ろに隠れた。
 遠巻きにはどうどうとして見えたが、背後で脅える紅茶色の髪は、克美の汗ばんだワイシャツを皺がつきそうなくらいに力一杯つかんでいる。虚勢を張っているように見えて少年が震えているのが、布越しに克美に伝わってきた。
 それも尋常じゃないほどに…。
 克美は男たちを黙らそうと、必死に睨み付けた。向こうも負けじとしばらく睨み合っていた。しかし根負けしたのか、男の一人が小さく舌打ちするともう一人を引っ張るように、すごすごとその場を立ち去っていった。
 精一杯張っていた克美の虚勢が、男たちが立ち去る事で和らいでいく。
 ほっと安堵の溜息を付くと、何事もなく自分も少年も助かったのだと自覚した。
「ほら…、行ったぞ」
 振り向いて声をかけると、あまりに怖い思いでもしたのか、少年は動けずに後ろでただ脅えて震えているままだった。
「ま、座れば?」
 克美は対応に困りながらも溜息を一回付くと、少年が元いた席ではなく、少年の荷物を持ち移動してから自分の前に導き座らせた。
 助けてしまったと責任も感じられたが、必要以上に脅えている様子に、今は一人にさせない方がいいのではないか、と感じたのだった。
 どうせしたお節介ならば、一回でも、二回でも同じだ…。いつも誰かに優しくする機会に恵まれない克美は、そうやって自分の中で折り合いを付ける事にした。
 少年が座っていた席を見ると、まだ何も頼んでいなかったらしく、ぽつんと手の着けられていない、水の入ったコップが置かれている。それを手にし、克美の座っている席の机に置く。
 コトリと云う音にも反応し脅える少年を見下ろしながら、克美が席に着こうとしたとき、まるで計ったかと思われるタイミングで、頼んでいたカレーが到着する。さっきの騒ぎを知らない店員は、別々に座っていた二人がいきなり同じボックスシートに座っているのを見て、不審そうな視線を克美に送ってくる。そんな無粋な視線を克美が無視していると、店員はカレーセットと伝票を置いて、何もなかったように立ち去った。
 小さく呟きながら溜息を着くと、戸惑いながら見つめる視線に気付き、席にきちんと座ると克美は、カレーをちらりと見た後に、少年に目線を向ける。
「お前、何も頼んでないのか?」
「え?」
 少年は驚いたように、顔を上げ、克美の顔を真っ直ぐ見つめた。
 グレイがかった薄茶色の瞳。こうして見ると、やはり奇麗だと感じずにはいられなかった。薄く煎れた紅茶色の髪も、光彩も、その仕草一つ一つもすべてこの世のものとは思えないような、そんな不思議な美しさを持っている。
「あ…、あの…」
 無言で見つめる克美の無粋な視線に耐えられないかのように、少年の不安そうな声が聞こえてきた。その声に我に返った克美は、こんな子供に見とれていた事に気付かされた。その恥ずかしさを誤魔化すように、一回咳払いをしてから、メニューを渡す。
「何でもいいから…、頼め。まあ、これも縁だし高くない物なら、おごってやってもいいぞ…」
「あ…、ありがとうございます…」
 少年は戸惑いながら、小声でそう呟き、メニューを受け取る。
 目の前で途方に暮れている少年の姿に、克美はいささか強引すぎたかな…、そう感じ若干後悔をしていた。実際この不思議な少年から目線がはずせなかった自分の態度を、誤魔化すためにした事だった。冷静に考えられれば、あまりにお人好しだと自分でも感じる。普段だったらああ、カモられている=Aその程度の視線を送るだけで、助ける事はなかった。まかり間違って助けたとしても、相手が落ち着くまで一緒にいたりなどはしないだろうし、何かをおごるなんて言葉は出ないだろう。今もあまりのお人好し加減に、克美は自分で云っておきながら、内心は苦笑していた。
 困った顔をしてぺらぺらとメニューをめくっている目の前の少年も、予想できない克美の行動に戸惑っている様子だった。
 なかなかオーダーが決まらない少年。
 無言のままの時間に耐えられず重い空気をなんとか打ち消そうと、克美は顔を引きつらせながら子供をあやすように無理矢理笑顔を作る。
「何でもいいんだぞ?」
 そうきっぱり云えるのは、財布の中に多少持ち合わせがあったからだ。もちろん、普通のインターネットカフェよりも若干食べ物が高めな店だったから欠食児童のように喰われたら手を挙げるしかなかったが…。
 しかし、少年は心配を裏切るように運ばれて来て、手つかずのまま冷めていくカレーを見つめながら、ぼそりと呟く。
「あ、あの…、このオレンジジュースで…」
 別に脅しているわけではなかったが、少年は蚊の鳴くような声で応えた。それでも自分に脅えているような少年の必死に笑顔を作っている。
「それだけでいいのか? セットもあるぞ?」
 えっ≠ニ口にしてから、慌てたようにメニューをめくる。安っぽい喫茶店のありがちな、あまり美味しそうには見えない食べ物メニューだった。少年の様子は焦っているというよりも、何を見て、どうしていいのかがわからない様に…。全ページを何度か往復した後どうして良いのか判らずに、救いを求める視線を送ってきた。
「いえ、あの…、本当に…、オレンジジュースだけでいいです…」
 そう云うと、少年はまた俯いてしまった。
 克美はせっかくの好意を無にされ、ムッとしながら、メニューを少年から受け取ると店員を呼びオーダーした。注文を終え、また克美が正面を向くと、少年は落ち着かない様子で座っている。
 なんでこんな訳判らないのを、助けちゃったんだろうか…。そう考えると自然に溜息が漏れる。克美は何を話していいのだか判らず、少年を見つめながら、ポケットから煙草を取り出すと、火を付け紫煙を吐き出した。瞬間、少年からゲホッと云う音が聞こえる。克美がもう一回紫煙を吐き出すと、今度はまるで酸素を欲する魚のように喘ぎながら、苦しそうに少年がむせている。
「もしかして、煙草だめ…、とか?」
 あまりに苦しそうな姿に克美は煙草を慌てて消して、涙目になりながら咳き込んでいる少年に水を渡した。しかし水を口に含んだ瞬間、少年はまた苦しそうに咳き込む。眉を寄せながらも克美は、慌ててカレーと一緒に渡された手拭きを渡す。手拭きで拭いながら少年は、口に入れた水を苦しそうに吐き出してた。
「だ、大丈夫?」
 涙を流しながら咳き込み、必死に克美に謝っている少年は、しばらくして呼吸が落ち着くのを待ってから口を開く。
「すみません…、すみません…」
「大丈夫? 煙かった?」
 少年はまだ少しだけ苦しそうに肩で呼吸をしながら、そうではないのだと首を横に振る。
「ごめんなさい…。煙草、僕の近くで吸っている人がいなくて、ちょっとだけ…、驚いてしまったんです。それと、水…、少し薬品の匂いがきついので…」
「そんなもの?」
「た…、多分…、両方とも免疫が出来ていないだけだと思うんですが…」
「は?」
 免疫って…。
 普段慣れている所為かそんな内容を感じた事もなかった。克美は少年の言葉に、思わず苦笑してしまった。確かに飲料水は水道から出るまでに様々な加工と薬品が使われている。健康を気づかってか、報道に踊らされてか人によってはそんな水を嫌うものもいた。しかし、克美にとってこの水も煙草もあまりに当たり前過ぎて、不快に感じた事がなかった。
 変な少年…。克美は小さく溜息混じりに頬杖を付き、眉を寄せる。
「なあ…、お前、どこから来たんだ?」
「え?」
 質問の意味が理解できないのか、少年は微笑みながら首を横に傾げる。自分の言葉不足なのを少しだけ恥ずかしく感じながら、照れ隠しに髪を撫でる。
「あ、いやさ、今の世の中で生きているのに、そんな事、気にしてるから…」
「そんな事って?」
「ほら、水とか…、煙草とか、今って普通でしょうが?」
「あっ…、ご、ごめんなさい…」
 素直に詫びている少年に、もしかして自分の感覚が可笑しいのではないか? 反対にいちゃもんをつけているような、そんな気になり、益々自分が恥ずかしくなっていた。
「いやさ…、別に気は悪くなってないけどさ。でもさ、お前、まじに今まで何喰って生きてきたの?」
「あの…、普通だと思うんですが…」
「普通ね〜」
 疑いのまなざしで見つめていると、少年を助人するようにウエイターがオレンジジュースを運んで来る。
 テーブルに置かれるオレンジ色の飲み物は、どう見てもフレッシュなオレンジから作られたものでは無く、添加物を山ほど入れた濃縮還元の液体を水で伸ばしたそんな物だった。どこまでも濃いオレンジ色の液体を見て、克美は小さく溜息を付いた後、ウエイターにすかさずミネラルウォーターを頼んだ。それからミネラルウオーターの到着を待ち、克美はすっかり冷めてしまった食事にやっとありついた。
 きちんとした教育を受けているのか、克美が食事を始めたのを待って、少年はオレンジジュースを一口、口にした。案の定少年は、苦しそうに口にしたオレンジジュースを飲み込んで、すぐに挫折してしまったようだった。
 この店は他の店に比べたら、比較的まともなものを出すが、それでもオレンジジュースは濃縮して加工したものを使っているのはすぐに予想が付いた。そう考えると、コップの水すらまともに飲めないこの少年には、飲めるはずはない…、と感じていた。
 仕方がないので最後の手段と頼んだミネラルウォーターをコップに注ぎ、少年に薦める。
「飲めよ、これなら多分…、飲めると思うぞ」
 克美に促され、少年は恐る恐るミネラルウォーターを口に含み、喉が上下し、飲み込まれていった。
 緊張のあと、にっこりと微笑んだ少年に克美の表情も自然に綻ぶ。
 少年の微笑みに少しだけ幸せを感じた事を克美は自覚し、その気恥ずかしさとあまりのお人好しを繰り返し続ける自分を叱責するように咳払いを一回した。
 これ以上少年を意識しないように、フォークを手にすると、何で作ったんだが判らないようなフレンチドレッシングの滴るサラダを一気に食べ、冷めてしまったカレーにむしゃぶりついた。仕上げに残り少なくなったビールを喉に流し込むと、克美は席を立ち伝票を手にした。
「早く帰れとは云わないが、今度は気を付けろよ。じゃないとさっきみたいのに絡まれて、どっかに売り飛ばされていくぞ」
 そう言葉を残し、何か物云いたげな視線を送っている少年に振り向かず、レジに向かう。
 結局少年に見とれ、それを誤魔化すためにお人好しに飲み物を奢った。何故そんな優しい事をしたか、自分でとった行動が理解出来なかった。
 呆れると云うよりも、やるせない思いの方が強い溜息を付き、レジで金額を支払いを終えると、店を出て歩き出す。とたん後ろから驚いたような、すまなさそうなアルト声が聞こえる。
「すみません! お金…、お金がいるんですよね…。ごめんなさい…、奢るって、言葉の意味が判らなくて…」
「は?」
 少年の発言に脱力した克美は、これ以上関わりたくないと云う思いで店を後にした。しかし、少年はにっこりとしながら、生まれた瞬間に克美を見てしまい、母親だと勘違いしたひよこの様にちょこちょこ付いてくる。
「お前さ…」
「ごめんなさい。お礼を云いそびれてしまったんで…」
 肩に触れようとする少年の手を、克美は怪訝そうに払う。これ以上面倒に巻き込まれたくなかった、克美は追い払おうと眉を寄せて追い払おうとする。しかし少年はそんな克美の気持ちを全く理解出来ないようだった。追い掛けて来た少年は、慌てて云いたかった詫びを礼儀正しく深々と頭を下げる。
「あの…。有り難う御座います。その…、調べてはいたんですが、それでも初めて体験する事ばかりで混乱してしまって、お礼が遅くなってすみませんでした」
 克美に素直に感謝し、頭を下げる少年。呆れながら克美は、溜息を付く。
「お前ねえ〜、もしさ、俺が悪い奴だったらどうするんだよ? お前、売り飛ばされるぞ」
「え? そんなこと…、あんなに親切にして下さった方が、そんなこと有りませんよ…」
 さっきのおどおどした様子とは若干異なり、丁重に頭を下げる少年に、克美は何故かこの時負けた…=Aそんな気分になっていた。
「いや…、別に。それよりさ、お前、これから行くところあるのか?」
 そう尋ねたときには、すでに毒気が抜かれ、克美は今晩少年を泊めてしまうんだろうな…、そんな予測が出来た。
「え、あの…この時期なら雨さえしのげる所はあると思うので、大丈夫です…」
 今日出逢ってから見た最高の笑顔を向ける少年に、克美は白旗を振るしかなかった。


To be continued.

そんな云い訳していいわけ?
久しぶりに青樹萌さまにイラストを描いていただき、本出せました。
また、今回挿絵、表紙を描いて下さった青樹萌えんのURLです。
よかったら遊びに行って下さい。素敵なイラストがたくさんあります。

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