2006/06/28

恋するFlowerBoy

Opening...

 カタンとレコードに針が下りる音。
 レコードが回転し始めると針が揺れるカタンカタンという音に混ざって、甘いミュートを着けたトランペットがクリアには響かないスピーカーから響いてくる。モノラルの楽曲。
 曲の名前は、『ラ・ヴィ・アン・ローズ』。
 かつてオードリー・ヘプバーンが出演した、世界中で様々な世代に愛されているそんな映画の主題曲。今では甘く切ない恋人同士を表現するBGMとしては、街角でよく聞かれるそんな曲だった。
 甘くしっとりとした音楽に乗って、ゆっくりと映像が広がってくる。
 音楽がモノラルならば、映像もどこか懐かしさを感じるモノクロームの世界。
 クリアではない画像には、縦に横にと何本も線が入ってしまっている。
 ぼやけた画像から曲に乗って見えてきたのは、ヨーロッパのどこかにある噴水広場。
 闇に街灯が点され、光を浴びて小雪がちらちらと舞っている。
 人々は足早に立ち去ろうとしているところで、一人のバスケットに花を一杯入れた花売りの少女が現れる。ぼろぼろの服、寒さで頬や手を真っ赤にさせ必死に花を売っている少女。言葉は聞こえてこないけれど、口の動きから少女が一生懸命になって、花を売っているのが判った。
 寒い夜。誰も立ち止まろうとはしない街。それでも少女は花を売っている。
 けれど最後には急ぎ足の馬車を避けようとして、転んでしまう。
 冷たい石畳。転んだ拍子に散ってしまった売り物の花。肘と膝からは泥と血で汚れていた。
 途方にくれる少女。少女は、涙を流しながら噴水に向かった。
 噴水の水は、薄氷が張っている。氷を割って、汚れた手足を噴水の水で洗い、頭にしていた三角巾で汚れを拭いていく少女。
 噴水にはみすぼらしい少女の姿が写る。本当はかわいい少女のはずなのに、やせて骨張り、泥が付いてしまった表情がますます少女を惨めに写す。
 少女はどんどん悲しくなり、涙をはらはらと流していく。
 すると少女だけが写っていた噴水の水鏡に、黒い影が重なってくる。少女は驚きに顔を上げた。
 目の前には優しい笑みを浮かべた、紳士が一人立っている。
 暖かみのある紳士の表情。紳士は何かをしゃべり、コートの内ポケットから財布取り出すと、紙幣を数枚、少女に渡した。
『花をいただけますか?』
 紳士の唇の動きから、その言葉が読みとれる。
 びっくりしながら少女は、首を横に何度か振ると、紳士は少女を慈しむように頭を撫でると胸のポケットに入っている真っ赤なチーフを取り出す。
 不思議そうに見つめる少女。紳士はにっこりと笑いながら、チーフを一回パッと拡げ、まるでマジシャンが手品前に仕掛け確認させるように少女に見せる。首を傾げる少女。紳士はチーフを筒のように握った手の中に入れる。そして逆の手でトン、トン、トンと三カウント数えた後、丸めていた手を開く。
 手の上にはかわいいチューリップの形を作ったチーフが出来上がっていた。
 今まで泣いていた少女の顔が笑顔になる。笑みを浮かべる少女。紳士は真っ赤なチューリップの形に見えるチーフを、少女の胸に飾る。
 驚いたまま動けない少女を紳士は冷たくなっている手を取り立ち上がらせる。戸惑う少女に大丈夫と告げるように笑う。紳士は少女をホールドし、甘く暖かい『ラ・ヴィ・アン・ローズ』に乗って踊り始める。
 二人は雪が舞い散る街で、誰よりも幸せな笑みを少女は浮かべていた。

1...

「いってらっしゃい〜」
 明るく元気な母親の声に送られて、雫陽月はいつもよりも少しだけ緊張した表情でバンを走りだした。
 ワゴン型の車の扉には雫生花店≠ニはっきりと書かれている、薄汚れた白い車。
 ダサいなんて言葉が今使われているか知らないけれど、陽月にとっては雫生花店≠キべてがダサい存在だった。
 今運転している配達用の白いバンにしても、薄汚れた木造住宅を改造しているような、古めかしい店の作りにしても。
 扱っている花だってそうだ。店のほとんどを占有しているのは、仏壇用の地味な菊を中心のラインナップ。時節柄で桃だとかカーネーションだの必要な植物を並べるには並べるがが、普通の花屋が力を入れているような花は無難そのものの色を並べたバラやチューリップにカスミ草程度だった。
 花の扱いにしても、フラワーギフトなんて言葉を使ったら他の花屋から苦情が来そうな花束。ラッピングのほとんどが、古新聞に包まれている。
 雑誌などでよく載っているフラワーショップとはまったく縁遠く、屋号はその名も雫生花店=B都心のはずれにある東野銀座にある店は、絵に描いたような下町そのものの花屋だった。
 配達先もそうだ。ほとんどがご近所さん。元華道のお師匠さんが教えているフラワースクールに街はずれに数件あるスナック程度。後は葬式に店のなんちゃら祝い。
 いくつ上げても地味以外の何ものでも無い店。
 陽月の子供の頃からの夢は、花屋以外の職業だったのに、気が付くと店を手伝わされ、大学を卒業した年には本格的な仕事になってしまっていた。
 もっとも大学に行っても、特にやりたいものも無かった所為と、何年募集しても来てのないアルバイトに抗う事が出来なかった。
 これが女の子にでも生まれていたなら、家を出て嫁に行くという手もあったのだけどな…。
 道の狭い商店街をすりぬけながら、陽月は大きく溜息を付いた。
 子供の頃から言われ続けていた跡取り息子という言葉に、陽月はうんざりしていた。
 本音では別に花屋が嫌なわけではない。ただ、このまま家をついで花屋になるのが嫌なだけだった。出切ればもう少し派手な仕事でもあれば…。葬式の花に仏壇の花。同考えても地味すぎる。
 仕事に対して溜息と愚痴が出ない日は無かった。せめて今日配達しに行く会社に勤められれば、もう少し派手な人生送れるのだろうけどな…。
 上を見たらキリがないかもしれないが、心がときめかない訳なった。
 いつもは面倒で嫌々行っている配達。
 けれども今日は少しだけ違っていた。
 これから行く先は、花に全然興味がない陽月でも知っているほど有名なフラワープランナーのいる会社だった。
 有名な雑誌で掲載されるような大きな会社に配達に行くだけで、心がときめくから本当に現金なものだ。
 話は数時間前の電話に遡る。


 春が終わり、まもなく梅雨といううっとおしい時期に突入したそんな時期。雨が降るのか振らないのか判らない湿気が、暑苦しさとだるさを感じさせる。
 ただぼーっとしている暇な時間の店番は、知らず知らずに船をこいてしまう、一人で店番をしていた昼過ぎだった。
 眠気を覚ます目覚まし時計のベルのように、店の電話はけたたましい音を上げた。
『はい、雫生花店です』
 ぼんやりとしていた時の電話で、多分愛想のいい言葉ではなかったとは思えた。陽月の態度に苛立っているのか、電話の先で小さく舌打ちしている音がした後、低い男の声が耳の中に響いてくる。
『イルデフランスは置いたあるか?』
 いささか威圧的ではあるけれど、印象に残る低い声だった。
 陽月は眠い目を擦りながら、電話を受ける。
『は? あの…』
 何を言っているのか理解出来なかった陽月は、今かかっている電話がキャッチセールスか何かに思え眉を思いっきり寄せた。途端また、耳元にチッ≠ニいうリップノイズが聞こえてくる。
『花の判る店員はいるか?』
『俺が店員ですが…、何か?』
 偉そうな男の声だった。腹が立つ男の声にムッとしながら応える陽月。男は陽月の態度にいらついているのか、また舌打ちを下後、次にあきらめたように今度は深い溜息を付く音がする。
『判った…、それならばしょうがない。じゃあ聞くが、定番で赤い一重咲きのチューリップを探しいるのだがあるだろう? 品種名はイルデフランス≠セ』
『あ、ああ…』
 男の説明を聞いて始めて、自分の無知さ加減に気づいた陽月は、頬を赤らめながら思わず息を吸った。それから順に、頭の中にある花を一つずつ思い浮かべていく。
 薄いピンクの一重はピンクダイヤモンド、オレンジ色の百合咲きはバレリーナで…。赤の一重がイルデスランス…。
 確かに赤い一重チューリップの名前で聞いたことがある気がした。確かチューリップの定番中の定番で、一年中入荷できるほど流通されている花だった。
 確か今朝の市でいつもお任せとするわ≠ニ言ってくれるフラワー教室用にと考えて、競り上げたチューリップがそんな種類だった。
 一人で無言のまま頭の中を整理していると、電話の先から大きな咳払いが聞こえてくる。
『で、今そこに有るのか、無いのか? どうなんだ! 能なし! こっちは急いでるんだどちらかはっきり応えろ!』
 なかなか返事をしない陽月に男はしびれを切らしたのか、電話先の声が荒立った。
 信じられないくらいにきつい言い方。まったく、気の短客だな…。
 心の中で呟きながら、電話の先で顔が見えないのをいいことに、悪態を顔で表現するように唇をひっくり返してタコの様な表情をする。それから自分を落ち着かせるように息を吐くと、出来るだけ今の気持ちがばれないようにこぼれんばかりの笑顔を作る。
『申し訳ありません〜、お客様。赤い一重のチューリップでしたら、ちょうど今朝入荷しましたが…』
 陽月が謙ったように詫びると、微かに電話先の男から笑みが浮かべているであろう息づかいが、耳元に聞こえてくる。
 やったね。電話先の男を見返した気がした気がした陽月は、電話の前で少しだけ自分を誉めるように胸を張った。
 しかし陽月の態度がまるで向こうに見えているかの様に、男の横柄な声が聞こえる。
『それは知っている。で、今、そこに何本ある? まだ箱ごと手付かずのまま残っているか?』
 何でお前が知っているんだよ? という疑問が脳裏をよぎった瞬間、陽月の表情が作り笑顔から訝しいものに変わっていく。
『まあ…、ここにありますが…、でもあれは別のお客様から依頼を受けまして…』
 わざとニュアンス的に口ごもる陽月の言葉を、男は腹を立てたようにな叫び声を上げ遮る。
『それは別の花で手配しろ!! それよりも、今そこに仕入れた百本が手つかずでまだあるんだな?』
『でも…、困るんですが…』
『なんだと! とにかく百本まるまる買ってやるから他には回すな!』
『そ、そんな勝手な…』
『勝手なのはそっちだ!』
『なっ…。つうかあんたいったい誰なんだよ? それにこっちのこともずいぶん詳しいじゃないか!』
 俺は客だぞ! と言われれば身も蓋も無い話だった。けれど、相手の男のでかい苛立つ声に、陽月も怒鳴り声になっていた。
 そして叫んでいるとますますこいつはなんなんだ、という苛立ちが強くなり男への反感が増してくる。
 しかし相手は陽月よりも上手な様だった。陽月が叫んだ途端、電話の先から舌打ちがし、次に馬鹿にするような大きな溜息がする。
『お前こそ、今の叫び方が客に対しての態度ではないだろう? まあ接客が判らないような奴を相手に話しても時間の無駄だ』
 何なんだよこいつ! と苛々しながらも陽月は言葉を飲み込んだ。
 確かに男の言う通りなのだ。
 実際に嫌々やっている店番なんだから、客に嫌われようがどうだった陽月にはよかった。しかしまるで心の中を見透かすように真実をはっきりと言われ、陽月は思わず顔を赤らめてしまった。
 自分に言い訳をするならば、確かにいやいややっている仕事ではあった。けれど電話の男の様に、ここまではっきりと言われるほどひどい働き肩をたことがなかったからだった。
『まあ、いい…。とにかくあるもの全部を買わせて貰うがいいな?』
『はい…』
 ここまで言われて断ることも出来ずに、陽月は頷いた。
 フラワースクールの花の方は、別のもので代わりがきいたのもあったけれど…。
『じゃあ、二箱きちんと届けてもらえるんだな?』
『はぁ、まあ…。あので、いつ、どこに?』
 男は小さく溜息とは違う息を吐く。
『届けてほしい場所は、有楽町にあるコンベンションセンター六階の会議室、ガラスルームだ。行けばすぐに判る』
『六階のガラスルームですね』
『ああ、時間は今日15時必着。宛先は、株式会社三代ビジネスコンサルティングの一ノ瀬宛だ』
 そこまで聞いて、陽月の心臓は鼓動を早めた。
 三代ビジネスサービスの一ノ瀬といったら、やる気のない花屋の陽月ですら聞いたことがあった。
 自身で作るアレンジメントでも評価されているけれど、今まで花を使ったビジネスを行ってこなかった会社に花を使ったビジネスプロデュースを行う部門を設けさせた。
 それだけではなく、実際に課長として部門を指揮し、普段では花など考えられないミーティングや職場へのプロデュースは何誌もの雑誌で取り上げられていた。
『おい、大丈夫だろうな?』
 名前を聞き言葉を失っていた陽月に、男は声を荒立てる。
『あ、はい。あの、一ノ瀬様ですね。だ、大丈夫です。で…、一本三百円なんですけど……いいですか?』
 無言の後、軽く咳払いが聞こえる。
『しょうがないな…、来月月末払いの請求書は出せるか?』
『はい…、あ、多分…』
『多分?』
『いえ、お持ちします、お持ちします…』
『じゃあ、遅れるなよ!』
 威圧的な男の声に、陽月は背筋をただし、返事をすると電話を切った。
 電話の雰囲気からいって、多分一ノ瀬本人の様な気がした。
 急にチューリップが必要になったんだろうか? 今までにない注文に、陽月は心を躍らせながら、間もない配達時間までの準備を開始した。

2...
 出来たときはこんなにすごい建造物があるかと話題になり、今では清掃だけでも税金の無駄遣いと言われているコンベンションセンター。
 見上げればノアの箱舟を思い出される晴れていると光に満ち溢れる建物。
 業者用の駐車場に車を止め、花の入ったダンボールを抱えて、六階まで上がった。
 フロアは大型の結婚式場の様に、何かで使われていて静まり返っている部屋と、会議が終わったのかドアが開かれて名刺交換をしている人が何人もいる。人々の先には指定された会場があるはずだった。
 目指す会場を見ると、会場はこれから行う何かの為に、何人もの業者が入って賑わいでいた。
 背筋に感じる緊張、震える手。
 自分を必死に奮いたたせて慌しい様子を覗くと、中は入り口より職人らしきすれ違う人々。皆がきびきび動いているように見え、見慣れない光景に陽月は戸惑い段ボール箱を抱えておろおろするしかなかった。
 誰に声をかけようか困っていると、ドアの先から先ほどの男のものと思われる怒鳴り声が聞こえてくる。
「そんなことも出来ないのか! ぼんくら!」
 電話で受けた印象そのものの罵声。声の主を除き見るとどこかの雑誌で見たことがある男の姿だった。
 あ、本物の一ノ瀬淳史だ…。
 商店街のヒーローショーですら連れて行ってもらった経験の無い陽月は、初めて有名人と出逢った驚きに思わず心をときめかせた。
 陽月の笑みとは反対に、光が溢れている会議室の中は凍える様な空気が流れている。
 声がかけにくい空気。
 周りが一ノ瀬を見る視線と、苛立っている当事者は荒らしを思わせるきつい沈黙だった。
 一ノ瀬は大きく舌打ちをすると担当者らしき人々に踵を返す。
「出来たら呼べ、出来るまで呼ぶな。たくっ…」
 自分の言いたいことだけいうと一ノ瀬は部屋を出て行ってしまう。
 後に残ったのは、陽月の様な新参者が声をかけれる様な空気ではない無言のみ。
 陽月は小さく溜息を付くと段ボール箱を抱えて、一ノ瀬を追いかけた。


 たどり着いたのは、控え室に使っているらしい小さめな会議室だった。
 扉には入室の際には、ノックして下さい。一ノ瀬とA4の張り紙がされているから間違えはないだろう。
 生一ノ瀬を見て舞い上がってここまで付いて来たのはいい。けれど控え室まで来て本当に良かったのかと考えると、不安が心によぎってくる。
 部下に怒鳴っていた時や電話での口調。思い出すとやはりここは無難に会場に戻って納品した方がいい気に陽月はなってきた。
 Uターンしようと思ったその時、控え室から何かをひっくり返すようなすごい音が聞こえてくる。
 何事? と近寄る陽月。一度すごい音がした部屋はすぐに不気味なほどに沈黙してしまった。
 中が気になる…。
 一ノ瀬さんが怒りのあまり、脳の血管でも切って倒れていたら大変だし…。
 不謹慎な好奇心と微かな心配とが重なり合う。
 陽月はドアを軽くノックしてドアノブに手をかける。
 ドアはありがちなミステリードラマの設定の用に、手をかけた瞬間開いてしまう。
 どうやらドアがきちんと閉まる前に施錠したらしく、その所為で上手くかみ合っていなかったらしかった。
「あの…、大丈夫ですか?」
 最初は泥棒の用に小さな声。こそこそと、身体を小さくして…。こそこそ隠れているせいか、一ノ瀬の後ろ姿以外見えない。
 何をしているんだろう? 気になって乗り出した次の瞬間、物音に振り向いた一ノ瀬と目が合う。
 ! …。
 こっそり入ってきたことにの罪悪感よりも、自分の目に映っている一ノ瀬の姿に驚き言葉を失った。
 あまりに考えられない一ノ瀬の奇行。
 何も話せずに言葉を失っているのは、陽月だけではない。当事者の一ノ瀬も見られては行けない自分の姿に陽月と同じように話すことが出来ずに、ただポカンと口を開けている。
 当然だった。
 多分本人も誰かに知られたくない行動だったのだろう。
 一ノ瀬はおそらく装飾に使うであろうバラやかすみ草をばくばくとまるで何かに取り憑かれたように食べていたのだから…。
 動けずに固まるしかない二人。
 陽月ははっと我に返るとさりげなく、何も見てないという様子を装って笑う。
「あ、あの…、失礼いたします〜。雫生花店ですがご注文のお花をお届けに上がりましたが…」
 きわめて不自然な笑顔。今の陽月にとっては、引きつっていようが、取り繕うっていようが、混乱しよてようが笑顔は笑顔だった。当然かなりやけも混ざっている。
「あ…、ああ…」
 顔の筋肉を引きつらせながら、応える一ノ瀬。一ノ瀬の方も陽月と変わらずどう反応して良いのか、態度を決めかねているらしい。その証拠に先ほどまでムシャムシャと食べて花が無くなった、バラやかすみ草の茎が微かに戸惑うように揺れているのが見えた。
「あ、あの…、ご依頼の花、ここに置いて良いでしょうか?」
「ああ。いや…、すまんがレセプションルームに届けて貰えるか?」
「あ、あは。そうですね、ハハハハ…」
 後ずさりしながら、陽月は部屋を出ようとする。
 一ノ瀬の奇行に対して関わってはいけないという思いよりも、記憶から今見たモノを抹消しなくてはいけないと言う意志の方が強いだろう。
 この耐え難い空間からもう少しで抜け出せるとドアノブに手をかけた瞬間、一ノ瀬が叫ぶ。
「いや! 待ってくれ!」
 え? と驚くように動きを止める陽月に、一ノ瀬は手にしていた茎を投げ捨てて駆け寄ってくる。
「待ってくれ、花はこちらで頂こう…」
 頂く? もしかしてまた食べるって事?
 微かな不安と疑問。思っている事を表情にすぐ表してしまう陽月は、眉を寄せたながら一ノ瀬を見つめてしまった。
「あの…、これチューリップなので…、食べると毒になりますよ…」
「え? あ…、いや…、そのくらいの事は知っているから、大丈夫だ。チューリップは食う為じゃない…仕事に使うんだ…」
 一ノ瀬に向ける陽月の視線は、信じていないとはっきり言っているものだった。陽月の視線と言葉に狼狽えている一ノ瀬は、控え室に入る前の偉そうぶりが想像出来ないほど、顔を引きつらせている。
「あ、それなが良かった…、じゃあ、納品書と請求書…、置いていきますね…」
 もう一度後ずさりにチャレンジする陽月。
 一ノ瀬は一度深く息を吸うと、陽月の腕を思いっきり掴んだ。
「ま、待ってくれ…」
「あの…、俺…、誰にも言いませんから…、ほらただの納品の業者だし…」
「それは…、いや…。確かに見たことは誰にも言わないで欲しいんだが…」
「大丈夫ですよ。それにきっと一ノ瀬さんが花食っていたって言っても信じないか、でなければやっぱりって言うかどちらかですから…」
 つい口を滑らせた言葉に、一ノ瀬は過敏に反応し陽月を世にも恐ろしい目で睨み付ける。
「あ、すみません…。これは秘密に絶対します!」
「本当だな…」
「はい…、つーか今回の納品以外…、もう、逢わないし…」
「…」
 厳しい視線で、陽月を見つめる一ノ瀬。一ノ瀬は大きく息を吐いた。
 まるで陽月を脅えさせるような形相のまま…。
 そこまで言って陽月の心の少しずうずうしいかとも思えるアイデアが浮かんだ。
「あの…、よかったら事情聞いてもいいですか? 俺、秘密守れるし…」
「…」
 無言で固まる一ノ瀬の厳しい瞳。陽月も不安げに一ノ瀬を見つめる。
 いつもの陽月であったら長いなどせずに、逃げ出していただろう。しかし心の中ではさっきまで威張り腐っていた一ノ瀬の弱みを見てしまったという特権意識が浮かんでいた。陽月は、少しだけ感覚が違っていたのだと思えた。
「じゃあ、理由は聞きません…。でもばれるとまずいから焦ってるんですよね? だったら俺をバイトで雇って下さい」
「バイトで?」
「ええ、一ノ瀬さんと周りの人の連絡役引き受けますよ。そうしたら一ノ瀬さんがお腹が空いて花をがっついていてもばれないし…」
「…」
 一瞬無言の一ノ瀬。眉を寄せたままジトリと厳しい視線で、陽月を見つめる。
「別に腹が減ってたから食ったんじゃない。最近無意識にストレスが溜まると花に八つ当たりするようにかみ砕いて、最後には腹の中に納めてしまうんだ…」
「それって…、なんかますますまずくないですか?」
「ああ…、確かにな…」
 苦しい物でも吐き出すように一ノ瀬が息を吐く。
「判った…、まず花を見せてくれ…」
「え? えぇ…」
 戸惑うながら陽月は段ボール箱を机の上に置くと、中の花を傷つけないように力加減を気にしながら開けた。
 一ノ瀬は、陽月が取り出すのを待たず段ボールから真っ赤なチューリップを一本取り出す。
 まるで宝石の鑑定でもしているように、じっくりとチューリップを見る一ノ瀬。
 陽月の背筋に冷たい汗が流れてくる。
「こらなら良いだろう…。判った、次回も君の所から購入する…」
「え?」
「今回の事は黙っていてもらう。その交換条件だ、君の話を受けよう」
 一ノ瀬は何かを吹っ切ったように、チューリップを一輪持つ手でニヤリと微笑んだ。
 陽月はその時、軽はずみな事を言った気が初めてした。

To be continued.



そんな言い訳していいわけ?
無事に2007/11/11のComicCityで同人誌になりました。ご興味がおありの方は、お手数ですがメール下さい。
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※DM/悪戯メ−ルはご遠慮下さい。