ゲエムの哲人 〜偶然の落とし物
 その会社は、羽田空港行きの赤い電車の途中にある。

 株式会社SAGE。Super Ably Game Entertainmentを略した会社名で、アミューズメントセンター用のゲームや家庭用のゲーム、カラオケから着メロまで様々な開発、販売、運営をしている。

 子供の頃からゲームが好きだった井上寿は、就職するならそれに近い仕事をしたいと夢見ていた。

 しかし、ある程度の年齢になるとそれは夢で、現実にはならないと実際にはただゲームをゲームセンターでつるんでいる仲間と楽しむだけで、ゲーム製作会社に勤めるなんて考えもしなくなっていた。

 それでも何かの引き合わせ合ったのかも知れない。都内の適当な経済大学を出て、経理、人事関係で職を探していたときに偶然、井上のあこがれ企業の一つであるSAGEの求人を見つけたのは…。

 それからはあっという間だった。就職難と云われる昨今で、有名ゲームのラインナップはあるが、社長が退任したり強豪が大きな名を上げたりと業績の不安定を見越して希望者が少なかったのか、あれよ、あれよという間に就職した。そして、気が付いたときには入社して五年が過ぎていた。

 五年と一口にいってもたいへんな時間だった。ネットワークを先駆ける新しい家庭用ゲーム機を販売してこれからと云うときに、元系列グループの会長で、経営を安定するために社長を兼任していた人物は癌で突然死去したり、強豪他社が新型家庭用ゲーム機を続々発売し、自社家庭用ゲーム機を断念したり…。今まで開発の部隊を会社として独立させたり…。その中でも話題になったのは、百十億円を投資した期待のゲームソフトの評判が悪く、バブルな時代ならいざ知らず、不況まっただ中で赤字を作ったことだった。

 構内に電車到着を知らせる放送が流れる。出勤でにぎわう人混みをすり抜けて、自動改札を慌てて通ると、スーツのジャケットと鞄を手にして振り上げながら、階段を駆け上がりホームへと急いだ。

 時刻はまもなく八時四十五分。

 開発を多く含んでいた社内規定では、最近労働基準局の監査が入って、十時から十五時まであったコアタイムを排除しオールフリーのフレックスになっていた。しかし経理部に所属する井上は、勤怠的に遅刻のペナルティは取られないが、部内規則で九時から五時五十分が定時と定められた。

 息を上げながら何とかホームにたどり着くと、運良く乗る予定の快速特急は到着していなかった。井上は呼吸を整えながら流れ落ちる額の汗を腕で拭い、次の駅で乗り換えやすい位置に移動しようとする。

 電車の到着を苛立たしく待つ者、無頓着に読書を楽しむ者、ヘッドホンで音楽を聴く者…、駅のホームには様々ないつもの人間が毎日毎日何の変化もなく、ひしめいている。

 目線をとなり駅の上り階段に一番近い乗降口へ移動した時、井上は驚きに目線を止めた。通勤客の溢れるホームで信じられない人物が視線の先に飛び込んできた。

 カーキ色のチノパンを履き、ラフな焦げ茶のストライプが入ったベージュのシャツ。その上に皮のジャンパーを姿の男。

 今は槍の細い眼鏡をかけ、柔らかそうなショートヘアがとても似合っている。身長は井上よりも少し低いくらいだったが、がたいは見た目体育会系のがっしりした骨格の井上とは対照的だった。もちろん男性としては細い方ではないのだろうが…。

 彼の名は、芦辺邦生。

 ゲームに詳しくない者でも彼の名を出せば判るのではないか、そう思える伝説的なゲームクリエイターで、家庭用、アミューズメントセンター用共にSAGEが代表す3Dを使った格闘ゲームバーチャルバトルのプロデュースをしていた。そして、ちょっと前に話題になった3D、RPGゲームで百十億の赤字を出したことでも有名だった。しかし、この会社でゲームを扱うようになった頃から、芦辺の才能はずば抜けていて、必ずすべてに受け入れられる訳ではなかったが、制作物の評価は信じられないくらいに高かった。誰もが芦辺をたとえるとしたら、天才と云う言葉を用いるくらいに…。

 かくゆう井上も普段は社用車として使っているファラーリで出勤する芦辺を朝から拝めて、遅刻ぎりぎりで走っていたことすら忘れて興奮していた。

 同系列の会社と云っても、片やかつての本社の経理、片や本社取締役で、親会社の株式会社CSI、Computer System Industry社のゲーム開発部長。いくら見つめても地から天を仰いでも届くはずのない思いだった。

 天上の人…、そして井上が学生時代に通ったアミューズメントセンターでずっとはまっていたゲームの制作者。

 井上は高揚する気持ちを抑えようと、大きく息を吸う。初冬の肺を凍らせる空気に、井上は思わずむせそうになった。

 いつもと同じはずの駅。

 溢れそうな通勤、通学客。ホームから見える街に何軒もあるチェーン店のアミューズメントセンター、パソコンや電化製品を扱っている元はカメラを扱っていたディスカウントショップ。特急と接続待ちをしている、各駅停車。

 すべてが、芦辺が立っているだけで、いつもとまったく異なってみてる。

 まもなく、ホームにいる駅員が電車の到着を伝え、快速の赤い電車が滑り込んでくる。電車が止まり、ドアが開くと人混みが一斉に動き出す。乗降客でごった返す。

 井上は周りに押されるようにして、電車の中に吸い込まれていく。

 ドアが閉まり、電車が走り出し、井上は視線を窓の先に向ける。社内の熱気で薄曇りの窓の果てに、多摩川の土手…、そして住宅がひしめき合っている景色が微かに見える。

 時間にして四、五分して隣駅に到着し、電車が止まり、ドアが開かれる。井上は押されるように降り、隣のホームへ乗り換えをする。

 しかし、芦辺の姿はもうどこにもなかった。

 井上は溜息を付いて、線を乗り替え会社へ向かう。

  * * *

 人生で"運命"と云う言葉を実感する時が来るとは、今まで思いもしなかった。

 今朝駅で芦辺を見かけた瞬間から、運命の歯車ってやつが動き出したのか、それとも、もともと回っていたやつが、ターニングポイントに出くわしたのかはわからなかった。

 しかし確実に云えることは、今日と明日が違うのだと感じられる出来事が起こったからだった。

 井上は緩慢な動作で躯を動かし、となりでさっきやっと休んだ芦辺を起こさないように、ベッドの横にあるサイドデスクに備え付けられているデジタル時計を見た。

 時刻はAM03:26…。

 駅で芦辺を見かけた今朝…、もう日に変わって午前二時になっているから、昨日の朝まで、本当に怒濤のような時間を井上は過ごしていた。

 遅刻ぎりぎりで出勤し、九月末で一旦締めた会社中間決算と、過去に各部門から上がってきた予算が書かれたビジネスプランを勘定科目別…、使った区分別に誤差を対比する仕事しようと、ファイルを開いた。

 十月の末できちんと数字の帳尻を合わせた中期決算書類との対比業務は、十一月に入り始めた仕事だったが、月末に近づいても数字を奇麗に確認して各部門別に報告書を完成までには、まだまだ時間がかかる仕事だった。

 昔からの名残で九時になるチャイムを確認しながら、さあ業務を開始しようとした時、早朝会議を終了させた部、課長が部署へ戻ってくる。井上はそれを横目で見ながら書類に集中しようと下を見つめていると、それを遮るように人の影で手元が暗くなった。

 何事かと上を見上がると、横で課長の上原が立っていた。何か失敗でもしたか? と不安な面もちで井上が顔を上げる。上原はにこやかなまま、会議室を指すジャスチャーをしながら口を開く。

「井上君ちょっといいか?」

 それだけ告げると上原は、部内会議室まで歩き出した。井上は首を傾げながら、ファイルを閉じ、上原を追い掛けた。

「井上君、朝の会議で君の移動が決まった」

「移動ですか?」

 いきなりの人事異動の話で、表情を渋くし井上は首を傾げた。しかし上原の方は井上とは対照的に終始笑みを浮かべている。もちろん唐突な人事に対する配慮かも知れなかったが…。

「ああ、今までの経理での実績を考えてね、今度開発の新しい分社を作ることになったんだが、そこの経理を担当してほしいんだ」

「新しい開発会社ですか?」

「ああ、映画に限りなく近いゲームを開発する会社で、まだ正式名称は出来ていないんだが、新社長は取締役の芦辺さんでね。社員は最初、十人くらいから始める予定だ」

「!!」

 驚きに井上は言葉を発することも、出来なかった。

『正式な発表は十二月一日だが、どうだろうか?』

 上原の言葉に、朝駅で芦辺を見かけたときに興奮を思い出しながら、気が付いたら『やります』と即答していた。

 十二月一日と云ったら後十日も無い。

 会議室から戻ってすぐ、上原が井上の後任予定者へ声をかけた。この不況、様々な人員削減でぎりぎりの人数でやっていた経理の仕事を引き継ぐのに十日は少ない日程だった。それをふまえていたのか、席に戻るとすぐに引継の作業を開始することになった。

 今日一日、デイリーワークと引継で最終的に会社を出たのは十一時を回ってしまった。それでも会社最寄りの駅は社員でごった返しているのは、時間に自由が利くゲームの開発をしているものが多いせいだろう。

 十日後には経理ではあるが自分のこの中に入る。それもあこがれの芦辺の下に。

 そう考えると井上の表情は自然に緩んできた。

 今日家に帰ったら妹の結希になんと説明しよう。井上の家は井上が大学の時に両親が大きな裁判になるくらい醜い形で離婚していた。当時中学生だった妹はそんな両親を嫌い、就職が内定していた井上と生活することを望んだ。就職した今でも、井上と高校二年の結希の元へ両親からそれぞれ仕送りが来ていた。

 そんな浮かれ気分で帰宅を急いでいると、今朝芦辺を見かけた駅の近くのレストランで当事者が目に飛び込んできた。

 不思議な偶然もあるものだ…。芦辺を見つめながら井上は、ここから家までもう一本乗り替えて、帰宅は十二時を過ぎてしまう。そう思い芦辺のいるレストランで食事をすることにした。

 店に入ると店員が席を案内してくれる。

 偶然とは重なるらしく、驚いたことに芦辺が座っているボックス席の正面、ボックス席に通される。ここからだと芦辺と目が合うのでは無いかと思うほど正面に。

 しかし、芦辺の方は女性と込み入った話をしているようだった。井上は店員にナポリタンとアイスウーロン茶を頼むと、鞄に忍ばせあった引継書類に目を通す。

「いいかげんにして!!」

 正面から女性の叫び声。驚きにそちらを見ると芦辺の正面に座っている。女性はいきなり火がついたように怒りだし、立ち上がっていた。芦辺は眉間に深く皺を寄せながら女性を見ている。

「おい…」

「判ったわ、あなたがそんなに仕事が大切ならもう付いていけない。これ返す」

 女性は何かを机の上に置くと立ち去ろうとしている。慌てて立ち上がり芦辺は女性の腕を掴む。二人の様子に気づき店の店員が飛んで来た。女性は声を下げて店員と少し話してから、きっぱりと井上にも届く声で芦辺に告げる。

「もう嫌なの、あなたの仕事に振り回されるの。離婚届は後で会社にでも郵便で送るから、それならきちんと受け取れるでしょう?」

 そう云って、芦辺の腕を払いのけると店の伝票を持って立ち去る。

 一人取り残された芦辺は、店員に小さく謝罪し何かを頼むと立ち去って貰った。

 一方井上も、まずいものを見てしまった気がする…、これから芦辺と仕事をすると考えると、所属変更の辞令を聞き、浮かれて店に入ったことを後悔していた。

 そう思いながらも目線で芦辺を見つめていた井上。当然のように芦辺は井上の視線に気づく。芦辺は罰が悪そうに笑うと井上も応えるように右手でいえいえと振って合図した。

 さりげなさを必死に装おうとしている井上だったが、芦辺はそんな気持ち知らずに、机の上にまだ残っているビールを手にすると、井上の席まで来る。

「騒がせてすまなかったね」

「あ、いえ…」

 出来るものなら今は関わりたくない。そんな本音を抱えたまま、必死に同じ会社の社員だとばれないように言葉を探す。途方に暮れている井上を助けるように、店員が井上の頼んだナポリタンとウーロン茶を運んでくる。芦辺が頼んだウイスキーも一緒に…。

「あ、すまないが同じものもう一つ」

 食事を店員がテーブルに並べると、芦辺はいきなり追加のオーダーをした。

 まだ飲み終わってないうちから、次いっちゃうんですか? あまりにスピードオーダーに井上が不思議そうな顔をしていると、芦辺はあたかも当然と云うように口を開く。

「あ、君の分ね」

「ちょ、俺、酒弱いんですよ…。気持ちは嬉しいんですが、ウイスキーみたいに強いのは、ちょっと…」

 慌てて断ったつもりだが、それでは気持ちがすまないらしく、ドリンクのメニューを井上の差し出す。

「じゃ、なんでも良いから一緒に飲まないか?」

「でもウーロン茶ありますから…」

「そんなこと云わないでさ…」

 芦辺は一回云いだしたことを一歩も譲る気がないらしく、店員を待たせたまま井上が選ぶのを待っている。井上も店員に申し訳ないと思い、小さく溜息を付きながらカンパリオレンジを頼んだ。強引な態度に同情を受けながら、店員はオーダーを受けて去っていた。

 店員が去ると饒舌そうに見えた芦辺は言葉を封じ、窓の外を見つめる。

 さっき修羅場とも云えるシーンを目撃した所為もあるのだろうか、窓硝子に写る芦辺の姿が物悲しそうに見える。もしかしたら強引に井上を酒につきあわせたのは今一人でいたくないからなのだろうか…。確かに奥さんから離婚届送るって云われたら、誰だってきついよな…。

 ナポリタンに手を着けずに芦辺の動向を見つめる井上。井上の視線に芦辺が気づく。

「あ、冷めないうちに食べたら? きっとこういう店だから冷めたらまずいんじゃないか?」

 井上にそう告げると、濃い目のウィスキーを一気に煽る。どう見ても自棄に見える飲み方で…。思わず井上は顔をしかめた。一気飲みに近い飲み方し、芦辺はすぐにグラスをしてしまった。

 まずい飲み方だよ…、そう想いながらもどうすることも出来ない井上は、芦辺を見つめながら気が散ってまったく味のしないナポリタンをほおばっていた。別に井上に用があったわけでは無い芦辺は、グラスを空にするとまた窓の先に視線を移す。間が持たないが、井上もただ黙々と食べるしかなかった。

 逃げ出したいほど重たい空気。井上は芦辺に見えないように嘆息する。

「すまないね…」

 芦辺がそう口を開いた時、井上のカンパリオレンジが到着する。芦辺は店員にお代わりと告げる。店員が空いたグラスを持って立ち去ったのを見て、芦辺がポケットからシンプルな銀の指輪を取り出した。

「さっきさ、これ突っ返されちゃった。こう云うのって昔はやった曲じゃないけど、捨てるのがマナーじゃないのか?」

 言葉は乱暴だったが、口調はまるで独り言を呟いているようだった。

「それって、ルビーの指輪じゃないんですか?」

「え?」

「曲…、俺に返すつもりなら捨てるのってルビーの指輪ですよ」

「ああ、そうだった。若いのにそんな曲知ってるの?」

「まあ、たしなみってことで…」

 芦辺は軽く微笑む。年齢は多分四十に近いはずだが、儚げに笑う姿はもっと若く井上には感じられた。

「君…」

「はい?」

「名前…、いや、こんな時間まで仕事なの?」

「ええ、ちょっと終わらなくて…」

「そうか…、でも働き過ぎはよくないよ」

「そうですか?」

「ああ、働いているときはいいけれど、家族は大変だから…、多分…」

「多分…、なんですか?」

 多分…と云う言葉が井上には重く感じた。井上の想像だったが、芦辺はきっと夢を描いて現実にするのが楽しくて仕事に没頭していたんだろう。そしてそれに奥さんは着いていけなくなって、先ほどの話になった。普通の会社なら仕事と趣味を割り切れることはある。普通の企業じゃないからよけいなのだと思うが、きっと芦辺には奥さんが腹立てている理由が今でも理解できないんだと思った。

「そうだな…」

 芦辺は、呟くように井上の言葉に相づちし、そして、遅れて来たグラスをまた仰いだ。

 どうしていいのか自分の感情を持て余している芦辺を見捨てることが出来なかった。井上は家に電話し、結希に飲んでるいので終電を過ぎるから先に寝ておくように、と告げると芦辺にとことんつきあう覚悟を決めた。

 酔った芦辺を送ろうと住所を訊ねると、このレストランの近くのシティホテルに泊まっていると告げられる。

 あんな乱暴な飲み方をしていたわりに、芦辺は酒に弱いらしく二杯目のウイスキーを舐めるように減らしていった。酒のテンポが遅くなると、酔いで顔を真っ赤にした芦辺は奥さんとのこと、仕事のこと、様々なことを混在して話し始める。井上は芦辺の話を聞き、ゲームがヒットし大金を手に入れ、夢だの浪漫だへの切符を手にした男の悲しさを感じた。

 最終的に半分以上残ったグラスの中を、もったいないと云う理由で井上が頂き、芦辺の泊まっているホテルへ向かった。

 芦辺を支えながら、ホテルに入りルームキーを受け取ると、部屋は少し大きめなシングルルームだった。応接セットに何着もの服が投げ捨てられている様子から、ここに連泊していることが伺えた。

 閑散とした部屋。

 何でホテルに泊まっているのか、を井上が訊ねたとき、芦辺は悲しそうに妻と子供の生活を守るために家は必要だから出てきた…。そう云った。

 芦辺に同情をしたのは自分だったが、酔って歩くのがやっとの状態で、ここまで運ぶ苦労や、終電が行ってかなりたった時刻にこれからタクシーで家に帰る。明日が休みだったらどんなにいいか…。そう考えると、溜息以外のものはでなかった。

「じゃ、俺、帰りますよ。暖房付けておきましたけど、そのままじゃ風邪引きますからね」

 寝ころんでいる芦辺にそう告げ、立ち去ろうとした瞬間、腕が井上を抱きしめた。

 強く首に回される両腕。

 バランスを崩し井上は、芦辺の上に覆い被さるような形でベッドに倒れ込んでしまった。それで芦辺は井上を自分に引きつけるように、強く抱きしめ、それ以上に離すまいと足まで絡めてくる。

「ちょっと…、あ、芦辺さん…」

 どんどん自分に絡みついてくる、酔っぱらった芦辺を、困惑した井上は必死に引き剥がそうとした。

「行くな…、俺を一人にしないでくれ…」

 酒臭い息を吐きながら、苦しそう芦辺はそう告げる。

「芦辺さん…」

 井上は戸惑いながも、躯を擦り寄せてくる、壊れかけている芦辺を振り払うことができなかった。

 あれだけ天才と評価されている人でも、こんなにももろく崩れることがあるんだろうか?

 そう感じた井上は、少しだけ先ほど芦辺に別れを告げた奥さんへ嫉妬心を抱かずにはいられなかった。

「芦辺さん…、これ以上しがみついてくると、男だろうが…、抱いちゃいますよ?」

 冷静に考えればいくら昔からあこがれている芦辺に対してでも、自分で口にした言葉はどうかしているのだろう。しかし、井上は、自分も酒に酔っているのだ…、そう自身を納得させる。

 発せられた言葉を理解出来ているのか判らなかったが、逆に抱きしめ返し、服を緩め、躯を撫でる井上を芦辺は拒絶しなかった。

 それどころか気持ちよさそうに熱い息を吐きながら、もっともっとと芦辺は躯を擦り寄せてくる。

 酒を飲むと屹たないやつもいると聞いていたが、今芦辺も、井上も萎えるどころか重なり合っている体の部分ではっきりと興奮の証が形を露わにしている。

「ぁ…、あぁ…、もっと…」

 上衣をはぎ取り胸をつまみ上げると、芦辺は眉間を寄せながら躯を井上に預けてくる。

 酔っている所為なのだろうか? そう疑問を感じるほど淫らでそそる芦辺の表情に、井上は一回生唾を飲み込んだ。

 部屋の間接照明で薄らと汗をかき、尖った胸が見え隠れしている芦辺はこれから上司になる人物でも無ければ、あこがれの存在でもない。

 今押さえつけて押さえきれない興奮をぶつけ、押さえつけ、征服し、鳴かせたい対象なのだった。

 井上は一気にズボンと下着を脱がすと、急くように自分も裸になり、芦辺にむしゃぶり着いた。

「ん…、あぁ…、あっ…」

 手にまとわりついてくる芦辺の肌。井上は膨らみは無いが、それでも舐めたり、摘めば素直に躯を捩らせる胸をいじりながら、先をもう濡らしている茎を優しく擦る。

 不思議と今まで考えたいとも思わなかったが、こうやって肌を触れていると、胸が立体的でなくとも、同じものを擦ることも抵抗がなかった。反対にもっと気持ちのいいところに連れていってやりたいとすら思った。

 快感に身を任す芦辺。井上は唇に初めて軽く自分の唇を落とすと、汗で額についた髪を払う。

「芦辺さん、俺も気持ちよくさせてね…」

 音がはっきり聞こえるように唇に口付けをした後、井上は芦辺の足の間に躯を埋めると、屹立しているものとその下で重そうに垂れ下がっている袋に何度かキスをする。芦辺の片足を持ち上げると、今まで隠れて小さく窄まった部分に唇を落とす。それから傷つけないように大切に蕾を舌でほぐしていく。

 芦辺の口から苦痛ではなく、別の感情が流れてきた瞬間、中に指を埋めていく。最初は一本、しかし、徐々に受け入れる気持ちの良さを訴えてきざしたところで、二本、三本と…。そしてそれでももどかしいと揺れる腰に、指を抜くと井上自身を与える。

 我ながら我慢強いと感心するくらいに大切に開かせた花は、雄芯をしっとりと包み込まれ、あまりの気持ちよさで井上は熱のこもった息を吐いた。

「芦辺さん…、気持ちいい…」

 男刀をしっかりと銜えたまま引きつっている皮を緩めるように、芦辺が感じる部分を撫でてやりながら、井上はゆっくり腰を回し始めた。

 とたんに芦辺の躯は反応を示し始める。感じすぎる快感に芦辺本人も訳が分からなくなっているのか、シーツを握りしめ、喘ぎ声を上げながら、涙を流し、すべてをやり過ごそうとする。

「こんなんじゃ、俺、芦辺さんから離れられなくなっちゃうよ…」

 井上も自身を熱く離さない筒から逃れようが無くなり、赤く充血している壁を傷つけないように注意を払いながら、腰を動かし始めた。

 すると時折エラが張った部分で感じる部分を擦るらしく、芦辺は息を荒くし、腹を上下させ到達点が間近なのを伝える。

 気持ちがいい、今までで一番…。自分の限界を感じた井上は、理性では押さえきれない部分に全身が包まれ、頂を目指して腰の速度を速める。芦辺もそれに合わせるように腰を回す。

 そして、どちらが先だったかなど判らないくらいのタイミングで二人とも精を放った。

 荒い息、汗ばんだ躯。それでも離れたくないと云う思い。

 井上は芦辺の上に躯を預けながら、自身を抜きたいと思わなかった。芦辺も井上と一緒だったのか、それに対して何も云わずにただ腕を背に回してくる。

 その晩、三度芦辺の躯に井上は精をそそぎ込んだ。最後には芦辺は自分で押さえることの出来ない快感に、意識を手放していた。

 あれは酒の上の夢だったのだ、とでも思ってもらうように、井上は仮眠を取るとシャワーを浴び、芦辺の躯をタオルで何度か拭うと部屋を出た。

 男のずるさかもしれないが、それでも後九日後に同じ場所で働くことを考えると、芦辺のためにもそれがいいのだと思うようにした。

 酔った勢いで抱きしめてしまった芦辺への罪悪感。そして、芦辺との最高の躯の交わりを自分で本当に忘れられるのか、井上は不安だった。

 しかし、この関係に愛情などと云う言葉が無い以上、ここで終わらせることがお互いの為だ…、そう自分に云い聞かせた。

 ホテルを出ると近くのショッピングデパートに据え付けているデジタル時計が始発に間もない時刻だと告げている。

 井上は振り向き、ホテルの芦辺の部屋当たりを見つめた。

to be continued

そんな云い分けいいわけ?

2003年12月30日に出た新刊のプロローグです。続きが読みたい! 

なんて思われる奇特な方は、宜しければ、通販の申込をお願いいたします。

と云って、逃げる音野であった…。(同じこと何度もいってる〜;;)

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