ウィスキーのオンザロックを用意し、BGMにはサンサーンス作曲の白鳥のチェロ演奏が繰り返し掛流れている。
あいつが好きだった銘柄のウイスキー、グラスは2つ...。
一つのグラスは俺用、もう一つはあいつ用に。
机の横にはあいつがよく弾いていたチェロ。
あいつがよく演奏していた一つ覚えのサンサーンス...白鳥。
こう見るとあの頃と何も変わっていないように見える。
ただ違っていたのは、俺が年を取ったことと、煙草を吸い始めたこと、そして、あいつがここ居ないこと...。
椅子に掛けていたジャケットの胸のポケットから、煙草を取り出し、火を付け、ため息のような紫煙を吐く。
昔に誰かが云っていた。
『人は寂しさを紛らわすために煙草を吸い、ため息を隠すために紫煙を吐く』
そう云われたとき俺はまだ煙草の味すら興味なかった。
しかし、こうやって煙草を吸うようになって、なんとなくその言葉の意味を理解できた。
「お前がいたら、きっと煙草なんてここで吸ってないだろうな...」
今日一日一緒にいたあいつの亡霊にそう語りかける...。
別に亡霊が見えるわけではないが、今日はあいつのことが頭から離れなかった。
今も正面の席にあいつが座って、笑っているようなそんな気になる。
もう死んでしまって逢うことが出来ないあいつが直ぐそばにいるような...。
仕事が忙しいときはあいつのことを思い出す暇もない。
けれど、ちょっとした瞬間、堰を切ったようにあいつと一緒に過ごした時間が、俺に覆い被さってくる。
初めて抱いた男はあいつじゃなかった。
けれどあの時あいつのことを思って抱いたような気がする...。
酒を教えてくれたのはあいつだった。
あいつは酒が弱いくせに、このウィスキーのオンザロックを俺に作らせ、酒を飲まずに氷をカラカラと音を立てながら、その雰囲気を楽しんでいた。
そして、誰かから譲って貰ったチェロを出し、危なげな指使いにボーイング(弓使い)で、このサンサーンス作曲の白鳥を弾いていた。
子供のように必死に汗までかきながら...。
気付くと俺はチェロ相手に涙を流していた。
あいつが死んだのは俺が大学2年の時だった。
もう、10年近くなるのに...。俺の中からはあいつの姿が消えたことが無かった。
あいつが死んだ後俺は、何人恋人を作っても、あいつの姿と重なり、結局長続きしなかった。
そして...、今も俺はあいつの亡霊と酒を酌み交わしている。
不意に携帯の音が聞こえる。
俺は、病院からの呼び出しかもしれないと慌てて取った。
『もしもし、。今何してた?良かったら逢わないか?』
「今は...」
『まさか、誰か別のやつ連れこんでんじゃねーよな?その部屋に友人ですら招きたがらない、あんたが...』
「明日朝一で診なくちゃいけない...、患者がいるんだ...」
『うそだろ?あんた、絶対しないじゃん。そう云うの』
「...。解った。何処まで行けばいい?」
『・・・通りの・・・って云う喫茶店』
「ここの近くじゃないか!」
『あんた来るまで待ってやる。この前みたいに閉店まで待っても来なかったら、今度はあんたの家(うち)乗り込むよ』
「解った...、15分待っててくれ」
その返答に満足そうにやつは携帯電話を切った。
後に残るのは”ツーツー”というむなしい機械音。
やつとは、半年前のサクラの蕾がちらほらと見え始めた頃に、所謂発展場で出会った。
そして、簡単な話をし、そのままホテルへ行った。
その日の俺は、性的な欲求を満たしてくれるだけの、その場限りで後腐れのない相手を捜していただけだった。
しかし、サクラの花が散った頃、俺が勤めている病院にやって来た。
『やっぱり逢えましたね。逢えると思いました』
「きみは!!」
『覚えていてくれて、嬉しいなー』
「何のようだ」
『ごあいさつだなー。俺、今日からここで内科医として働くんですよ。あんたの同僚』
「本当か?」
『そうですよ。これから宜しく・・・先生』
「俺の名前を?」
『やだな。名札つけてるじゃないですか』
「名札ね...」
『なーんて、同僚のあんたのことは、何だって知ってますよ』
「どういうことだ」
『そんな怖い顔で睨まないで下さいよ。そそられちゃうじゃないですか』
「どう云うことだと訊いている」
『外来専門のあんたからの紹介状とかで、検査するんですよ。だから教えて貰ったんです』
「!!」
『宜しく、せんせ』
やつが云うように俺はこの病院で、月〜水と金曜日に内科外来のみの契約で勤めている。
そして、他の曜日は大学行って、留学先から持ってきた研究を、面倒を見たがる教授の研究室を使ってしていた。
俺はやつのことを全く知らなかった。だから予想外の再会に驚いた。
けれど、更に驚いたことに、翌日大学に行ってみると、やつは留学してまもなく俺がいたゼミに入って来たらしく、教授からやつの面倒を頼まれてしまった。
喜ばざる再会に途方に暮れている俺とは裏腹に、病院で嫌と云うほど逢ってしまうやつは、まるで弱みを握ったかのように俺の回りに近寄って来る。
『あんた海外じゃ結構名が通っていたんだね』
「! 君とは関係ないだろう」
『何で外来だけしかやらないの?勿体ない』
「別に君に迷惑を掛けているわけじゃないだろう」
『掛けてますよ』
「どこら辺がだ」
『優秀な医師に、隠居医師みたいな仕事されちゃ迷惑でしょ』
「そういう契約でこの病院に来ている。俺にこれ以上関わるな」
『関わりますよ。ずっとね。あんたに』
よけいなお世話だった。
それどあいつは言葉通り俺に、資料不備と内視鏡の検査を回したり、カンファレンスの参加を連絡してきたりした。
仕事のことで頭が痛かったのはやつだけではなかった。
『本当にそんな仕事で良いのか?』
教授には今でもそう云われる。
俺が医者を目指したきっかけは、あいつが初めて入院した時だった。
俺は高校三年で、受験する大学も既に決まっていた。しかし、冗談ぽく云ったあいつの一言が俺の人生を変えた。
『そうだ、お前に診て貰えば直るかもな...』
俺の成績で医大受験はそんなに困難ではなく、その時の受験先に執着を持っていなかったので進路を変更した。
そして、大学に入ったばかりの頃に、俺の両親からあいつの病気が治る見込みが無いことをしり、あいつを何とか救いたくて、いいや、あいつを失う恐ろしさから逃れたくて、ひたすら勉強をした。
その頃だった、あいつを初めて抱いたのは...。
あいつは2度目の退院をした後で、見た目は病人にはまだ見えなかった。
あの晩、疲れて帰ってきた俺にあいつは云った。
それは、金木犀が舞い散る風の強い秋の晩だった。
『もし、もしも俺の幸せを思ってくれるなら...、一つだけ頼みがある』
「なんだ?俺、急ぎで提出のレポートがあって...忙しいんだけど」
『そうか...、じゃいいや...』
「なんで泣いてんだよ。お前らしくない...。いいよレポートなら明日でも間に合うから。頼みって何?」
『...。お前、俺をどう思う?』
「どうって...。好きだよ。嫌いだったら4年も一緒に暮らせないじゃん」
『お前、今恋人いるか...、いいや、返事しなくても...。頼みって云うのは...、お前の...、お前には迷惑掛けないから...、一度だけ、一度だけで良いから俺を...、俺を抱いてくれ。お前の肌の温もりを分けてくれ...』
「!! 何を云ってるか解っているのか...?」
『解っている。俺はもうすぐ死ぬから...』
「お前は入退院を繰り返して、気が弱くなっているだけだ。後できっと後悔する」
『いいや。”気が弱くなってる...”、お前がそう云うならそうでも構わない。後悔はしない。お前にも迷惑を掛けない。だから、ほんの短い時間でいい、お前と繋がっていたいんだ。男同士なんて気味悪いだろうし、まして子供の頃からずっと一緒にいて嫌かもしれないが、一晩だけでいい、俺をお前のものにしてくれ...』
その晩、俺達は一つになった。
俺は大切な宝石を愛しむ様にあいつを抱いた。
”愛している。離れられない”と告げられぬまま二人は躯を繋ぎ合った。
翌日、あいつは俺に断りもせずに大事にしていたチェロを残して家を出た。
それから直ぐにまた入院をし、一年の闘病生活の後、あいつは帰らぬ人になった。
あいつを失ってから、俺は教授の薦めで留学し、医師になった後も何かと戦う様にあいつの病気の研究をしながら、仕事をした。
けれど、ある日気づいてしまった。
あいつはもう戻らないのだと...。
そう考えると全ての気力を失い、何をするのも嫌になり、自殺しようとしたことはなかったが、研究も仕事も全てが嫌になり、日本に逃げるように戻ってきた。
負け犬として...。
教授に相談し、外来の入院患者の面倒も見ないような、そんな仕事を紹介して貰い、今はその地位に甘んじている。
だから今でも教授に逢うと云われる。
『いつでもあのチームに戻ってきて欲しいと云われたよ...』
悲しそうに...。
「遅い!あんたの15分は、世の中の1時間か??よくそれで医者やってるな...」
すでに頼んだ物を飲み干して、退屈そうに待っていたやつはそう云う。
「そっちこそ、人を呼びだしておいて、その云い方はないだろ」
俺はアメリカンを頼んで、それから煙草に火を付けた。
「誰かと逢ってたんですか?家にいると思ってたんですけど」
不思議そうにやつは俺を覗いた。
「なんでだ?」
「酒の匂いさせてるなんて、あんためったにないから...」
確かに俺は外で飲むのは嫌いだった。
ただ自分から酒を欲するときは、あいつのことを思い出すときだった。
あいつの好きだったウィスキーのオンザロックをあいつの亡霊と酌み交わしていた。
「プライベートだ。君に云う必要はない」
はっきりと俺がそう云うと、やつはいつも少し拗ねた顔をする。
「そうやっていつも自分と他人の線を引く」
俺は頼んだアメリカンを一口飲む。
”あちっ!”
やつはクスリと笑う。
「猫舌なのにどうしてきたばっかのコーヒー口に含むかな?」
「ほっといてくれ!」
机に頬杖を付きながら覗くようにこいつは俺をまっすぐ見た。
「全く、・・・さんは子供みたいだなぁ」
「悪かったな...」
やつは手を伸ばし俺のコーヒーのカップを取った。
「!!」
そして、自分の水に入っていた氷をいくつか入れる。
「これで飲めますよ。もっともアメリカンよりNYくらい薄くなってるけど...」
俺は驚いた。
あいつもそうやって俺のカップによく氷を入れた。
『ほら、これで飲める。でもこれじゃアメリカンをもっと薄めたNYくらいになるな』
「NYってなんだ?」
『CMでやってたんだよ。”アメリカン、水で割ったらニューヨーク”って、NYって飲み物。でも直ぐ市場からなくなっちゃったけどね...』
今日は何をしても亡霊が離れてくれないらしい。
俺は一度ため息を付いた。
「それ飲んだら行こう」
いきなりやつが云いだした。
「何処へ?」
俺は素っ頓狂な顔をして答えた。
「解ってるくせに。あんたを呼びつける時なんて、いつも行く場所は一緒だろ。それ以外のつき合い、あんたは嫌がるじゃないか...」
「別に、そのつき合いもやめてもいいがな...」
一瞬驚いたように目を見開いてから、やつは叫ぶように云った。
「じゃあ!あんたはなんでここに来たんだ!!」
慌ててやつに”シッ”とポーズを取った。回りに客はいなかったが、やはり誰かに聞かれたくない会話だった。
「悪かった。そうだ、行こう」
そい云って、氷が溶けて丁度良い温度になったアメリカンを、一気に飲み干し、黙って伝票を持って席を立ち会計を済ませ店を出る。
「で、何処に行くんだ?」
「あんたの家」
「ふざけているなら帰るぞ!!」
ニヤリと笑ってやつは云う。
「ジョーダン。ここからだといつも使ってるホテルって訳、いかないな...」
「ではこのまま別れるって云うのも、新鮮で良いだろう」
「それじゃ意味無いじゃん。俺んち来ない?ここからそう離れていないし」
そう云ってやつはせかせかと歩き始めた。
「ほら、早く!!」
俺はすごすごとついていく。
とにかくあいつの亡霊から離れたかった。
あいつのことを思い出すと、朝も昼もない。何年もこんな生活を繰り返している。
誰でも何でもいい、もう何も考えないように何かに没頭したかった。
「着いたよ」
やつの家は驚くことに俺の家から、たいして離れていなかった。
「驚いた?あんたの家からそう離れて無くて」
「ああ」
「ま、上がったら?ウーロン茶しかないけど、そのくらいだしてやるよ」
靴を脱ぎ部屋に上がる。
部屋はキッチン付きのワンルームマンション。柔らかい緑で統一された上品で落ち着いた造り。奇麗に片づいていた。
「座るとこ無いからベットの上でも座って」
「ああ」
やつはキッチンからウーロン茶とコップを2個持ってくると、ベットの横に有る机に置いた。
「飲めば?」
「ああ、すまない」
急にやつがクスリと笑う。
「驚いただろ?ここに住んでいて?」
「別に、あの病院の医師なら、いつ呼び出されても不思議はないんだから、さほど離れていない所に住んでいてもおかしくない」
俺はすました顔で云った。そうするとやつは渋い顔をする。
「ち、そう云う答えするか?普通。ま、そこがあんたらしいかもな。な、ずっと訊きたかったんだけど」
上着を脱ぎながらやつは質問してきた。
「なんだ?」
「あんたのその結婚指輪」
俺は自分の左手の指を右手で隠すようにした。
この指輪はあいつとペアのエンゲージリングで、ずっと渡したくて渡せずじまいだったが、片方を葬儀の時につけあいつを送った物だった。
「ああ、これか...」
「あんた結婚してないよな?なんでつけてるの」
「どうだっていいだろ?」
「あの店で見たときも思ったけど、あんた絶対変だよ」
やつは拗ねたように云った。
「そうかもな、でも君だってその変なやつとこんなことしているんだろ?」
小さくため息を付いてから、やつは口を弾き結び、無言のままのキス。
そして行き着くところはいつも同じだった...。
時々あいつはこんな俺をどう思うのだろうか?そう考えることがある。
今晩は熱に酔って、きっとあいつのことを考えずに眠れるだろう。
もうすぐ金木犀の花が咲く...。
Fine |