2006.03.05
教訓めいたいい話

 昼過ぎの柔らかい日差し。
 こんな陽気のいい日は、公園でのんびりしたいなどと、つい現実逃避をしたくなるそんな昼下がり。
 どうでも言い訳ではないけれど、それでも小難しい言葉が山ほど登場するプレゼンの立会い。
 分煙化されてタバコで不快になる事も無ければ、暑からず寒からず、適温に調整された会議室。
 自分で会社に持ち込んだ話の所為で立ち会う羽目になった企画。
 このプレゼンが成功するかしないかで、きっとこれからの自分の仕事内容も変わってくるのだと判ってはいる。
 緊張して成り行きを見守るには、この暖かい日差しの部屋は、拷問そのものだった。
 矢内悠一は、うんざりした思いを吐き出すように小さく溜息を付いた。


 ここは新宿副都心のオフィスビル群の一角。
 はとバスも止まるほどメジャーな高層ビルの二一階にある、ビルと同じ財閥系の有名商社会議室。
 比較的広めの会議フロアにはプレゼンテータを中心に楕円形の円卓が置かれている。
 ノートPCなどを開きながら、ブルーカラー、ホワイトカラーが入り交じり、年齢も三十代から六十代までの様々な二十人ばかりの男たちが集まって渋い顔をしている。
 メンツは様々な企業の担当者や上司。会社からは常務や矢内の上司など、かなりしっかりしたメンバーだった。
 空調が整えられた清涼な気分で会議が出来る場所。
 気分はその場所と比例している、と言う訳でもない。
 それでもとても息苦しいと思えるのは、凍結を感じさせる案件の打ち合わせの所為だろうか。
 ここ三十分ばかり、会議に参加している若くて三十代、年齢の高いもので六十代くらいのブルーカラーとホワイトカラーが入り混じった男。
 そして円卓で説明をしているのは、矢内の大学時代の知り合いで津川美紀だった。
 きちんとまとめられた資料と判りやすい説明。
 大学時代学年、専攻、そして同じゼミに津川はいた。
 それだけ近くにいてもそれほど親しい訳ではなかったけれど、それでも同じ研究をしている中で群を抜いていた津川は矢内を含んで皆が就職していく中、大学に残っていた。
 研究のテーマは、地球環境再生。津川はその中でもごみなどの再生処理などを研究していた。
 矢内が地球環境を専攻した理由は、なんとなく就職に有利かな? 程度だった。
 確かにその恩恵を受け、大学の専攻とは多少異なっているが、財閥系の有名商社に勤めてそれなりに安定した収入と生活を送っていた。
 別にそれでもいいんだよ…。
 会議に真剣な気持ちで参加するつもりのない矢内は、小さく呟いた。
 津川のサポートとして会議に参加していといっても、口を挟む必要もなく、ただ眠気と戦いながら、晴れ渡った窓の外を眺めて愚痴るしかなかった。
 そもそも場所がよくないんだ…。
 確かに立地条件はオフィスビルとして悪くないと思う。
 しかし高層ビルの二十階にある会議室を取り囲んでいる、ピカピカに磨かれ大きな窓ガラス。窓の彼方に見える公園では、桜が咲き始めている。熱くもなく寒くもなく、整えられた空調。
 説明をする津川の声すら、優しい子守唄に聞こえてくる。
 目の前に置いたノートPCを隠れ蓑に、思わずうとうとしてしまいそうになっても、俺の所為じゃないだろう、そんな思いもちらほらと…。
 しかし本当に実行出来るのだろうか。
 必死で皆に今回のプロジェクトの説明をしている津川を見つめ、矢内は大きく息を吐いた。
 そもそもきっかけは、津川からの一本の電話だった。

*  *  *

「よかったら久しぶりに逢わないか?」
 ちょうど今から半年前のとても暑い日の夕方。
 それが十年ぶりに聞いた、津川美紀の言葉だった。
 電話を受けたとき、矢内はまだ会社で書類を片づけている途中。
 どこで携帯の番号を聞いてきたのかは知らない。しかし、津川の声は薄れかかった記憶に残るものと同じだった。
 津川とは、大学時代に同じゼミを受けていて、それほど親しくはなかった。けれど時々仲間同士で飯を食ったりする仲ではあった。
「どうしたんだ? 突然?」
 訝しげに応えた矢内に、一呼吸置いた後に津川は口を開く。
「実は、お願いがあって…」
「おい、勧誘ならお断りだぞ?」
「勧誘? ああ、そういう電話する人もいるね…」
「じゃあ、何だよ」
「矢内さんは四友物産に勤めているんですよね?」
「まあな…」
「一つ話を聞いて欲しくて。明日の昼でも逢えないか?」
「昼〜?」
 あまりに突発的な話に、眉を寄せながら矢内は嫌と言う思いを含めて、言葉の語尾を上げながらわざと振るわせた。
「すまない、急ぎと言う訳ではないんだけど、まあ早いほうがよくて…」
「いいが、俺が昼休みでいいのか?」
「ああ、昼って何時?」
「十二時…」
「じゃあ、パークハイアットの近くの公園で、待ってる。昼用意しとくよ」
「は? まあいいけど…」
「じゃあ」
 まったく津川の意図がつかめない電話だった。
 あいつあんなに押しが強かったけ? 曖昧な津川の記憶をたどる。
 矢内の中の津川はいつも真面目で一人でこつこつ仕事をしているような、そんなタイプだった気がした。
 まあ、変な話だったら断ればいい。
 そう呟くと、再び書類に目を戻した。
「で、なんでこんな炎天下なの?」
 暑さにめげ、公園に来る途中何度も約束を後悔しながらやっとたどり着いた公園。
 指定されたのは、公園の中央にある一応針葉樹の下にあるベンチ。近くには噴水もあり、濃い緑が輝いていて涼しく見るはず…。
 しかし真上から射す日差しは、涼しさの一文字すら浮かばせず、立っているだけで汗が噴き出してくる。
 矢内は汗をハンカチで拭いながら、日差しのさんさんと照っているベンチに座って涼しい顔をしてる津川。
「まあ、座らないか?」
 津川は気温の高さを感じさせない表情で、矢内に冷たい缶コーヒーを渡した。
「サンキュ」
 少し温くなった缶コーヒー。
 まったく行動パターンの判らない津川に顔を引きつらせながら、ベンチに座り缶コーヒーを開けて一気に飲んだ。
「パンとおにぎりを買ってあるから、適当に食ってくれ」
「ああ…」
 渡されたのは、いくつかの調理パンと様々なおにぎりの入った袋。
 少しだけ大学時代の研究室であった光景を思い出し、矢内は苦笑した。
「今、何してるの?」
 差し出されてものをすぐに食べるのもはばかられ、矢内はお茶を濁す程度の質問をした。津川はえっ≠ニ驚いた顔をした後、にっこりと笑みを浮かべる。
「まだ大学にいるよ。まあ講師なんて仕事はもらっているけれど…」
「講師って凄くない?」
「そうかな…。なんか成り行きもあって…」
 感心している矢内に、恥ずかしそうに津川は頬を染めながら頷いた。
「そうだろう? 環境再生だよな?」
「え、ああそう、そのまま。それよりも、矢内さんの方が凄いじゃないですか」
「なあ、矢内でいいよ。別に知らない仲じゃないし…」
 津川は?≠ニ首を傾げた後、笑みを浮かべる。
「そう? じゃあ矢内…、矢内の方が凄いと思うよ。入社試験もパスするの大変そうな四友物産で主任だろう?」
「まあ、何とかな〜。でも商社なんて聞こえはいいけど実際仕事していると面白いものじゃないよ」
「そんなことないだろう?」
 優しい笑顔を浮かべながら、津川は感心しているように何度か頷いた。気恥ずかしさを感じた矢内は、思い出したように、本題を尋ねる。
「で、急用って何なんだ?」
 津川は自分用に買ってきたらしい、オレンジジュースのペットボトルで一回口を潤す。それから自分の横に置いてあった大学の名前の入った茶封筒から書類を取り出す。
「読んでくれ…」
 矢内は首を傾げながら、書類を見つめる。
「発展途上国における酸素増加と排出権の獲得? 何だこりゃ?」
 『発展途上国における酸素増加と排出権の獲得』とタイトルページに書かかれている書類。
 眉を寄せている矢内を反応しているのか、していないのかが判らない態度で津川は見つめていた。
 矢内は小さく溜息を付いてから書類に目を通し始めた。
 内容は、簡単に言うとこう言う事だ。
 京都議定書≠ェ施行に伴って、企業は環境を考えたビジネスをする事が課せられるようになった。
 しかしそれでも課せられた問題の対処は難しい。
 そこで排出権を獲得し、日本に課せられた温暖化ガス削減のノルマをクリアするための、企業に対しての提案がそこには書かれていた。
「ふーん、まだこんな事やっていたんだ」
 半分くらいしか理解出来ない内容に、まるで遠い世界の話でも読んだように矢内は溜息混じりに呟いた。
「ああ」
「もしかしてずっと大学に残ってたのか?」
「そうだね…」
「で、これどうしたいの?」
「これを実行するために、協力してくれないか?」
「しかしな…、俺がやっている仕事は物≠セし…」
 眉を寄せたまま矢内は呟いた。内容が自分には難しいと感じたのも多かったが、読んだ限りで言うとかなり津川の提案をビジネスとして扱うには面倒な話になりそうだった。
 持ってきた提案書に書かれていたのは、排出権ビジネスと言うやつだった。
 津川は発展途上国の土地で、ゴムの木を栽培して、二酸化炭素を減らし酸素を増加させるという提案だった。もちろん出来たゴムは製品にする。
 膨大な広い土地を安い値段で手に入れて、地域の住民はに賃金を支払いながら、地域の整備を行う。
 テレビドキュメンタリーだったら見たもしれない。けれど、参加するのは嫌だと単純に感じてしまった。
 乗り気でない矢内に、津川は真剣な表情をする。
「確かに今回の提案しているビジネスは、簡単な事ではないと思う。しかしお前なら、流通を扱っている会社なら絶対に出来るはずなんだ!」
 初めて見た気がした、こんなに熱く思いを語る津川の姿を…。
 矢内の知っている津川は、いつもこつこつ一つの事に取り組んでいて皆が騒いでいるときもこつこつとノルマを片づけている。
 そんな印象だった。
 いや、むしろそんな対象だったからこそ、こんなに何年も経った今でも忘れなかったのかもしれないけれど…。
 しかし意外な面を見せてくれた旧友は、更に矢内を驚かせた。
 それから一時間近く持ってきたプランを、最後には矢内が会社に話してみると言うまで夏の暑さに負けないくらいに熱く語り続けた。
 そして話が時には、脱水症状と軽い熱射病になりそうなほどで。津川の持ってきた昼食も食べれない存在になってしまっていた。
 矢内は小さく溜息を付いた。
「判ったよ、とにかく一回部長へのアポとってやる。まあ、話はそこからだな…」
 津川は印象的なすっきりとした笑みをこぼした。

To be continued.

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