2005/10/27

NightMusic



 東京駅の手前に、新橋駅と言う駅がある。
 かつては、日本で初めて汽車が走った停車場だった。
 今は、華やかな銀座。海側には汐留、お台場。都心に向かえば霞ヶ関や桜田門、そして国会議事堂とオフィス街が広がっている。
 その駅近く、出口の名前は、烏森口に華やかな社交場銀座≠フような格式高い店からはまったく想像ができない、大衆酒場や色っぽい店が建ち並んでいる。
 昭和を知っている者はこの街を、象の墓場≠ニ呼んでいた。
 コンクリートジャングルの吹き溜まりに似た街が、サバンナで大量に死んだ像の屍にしているところから、そんな言われ方をしているのだと、誰かが言っていた。
 金をかけなくても遊べる夜の娯楽を求めた街、それが新橋だった。
 そんな新橋駅で降り、会社員でごった返している駅の改札を抜けて、彼方の汐留高層ビルディングを横目に、雑多に建てられたビルディングへ向かう。
 生ごみくさい一角。
 すれ違う瞬間に肩があたる距離で足早に歩く、何人ものサラリーマンたち。
 メインストリートから外れると、何人ものポン引きまがいの男たちが集まってくる。
 立ち飲み屋、キャバレー、クラブ、ビデオ個室に、性感マッサージ。すでに赤い顔をした年配の男、物欲しげに店の前に立つ分厚い化粧で年齢不詳な女たち。
 街にこなれた人々を横目で見ながら、更に先に進むと薄汚れたコンクリートの三階建てのビルの角からの路地に入る。
 ビルとビルの間の狭い横道。
 少しだけ奥に進むと、すぐに場所を間違えたのではないかと真剣に考えてしまいそうな品のある深い色の木製の扉がある。一枚の厚みのある木に天使や花が彫られ、深みのあるニスで加工された、重厚な扉だった。
 扉をくぐると、生ゴミの匂いがする街とは違う世界がここから始まる。
 裸の電球がいくつか燈されている崩れ落ちそうな木製の急な角度の階段を登って、二階に行く。
 始まりは、アコーディオンの音。
 階段よりも幾分明るいフロアに目がなれる前に届いてくるのは、生で演奏されているねっとりと身体に絡み付く色気のある響きだった。
 アコーディオンに混ざって、ウッドベースにギター、そしてヴァイオリンが重なっていく。
 そして若い男性ボーカルの、甘い声。
 愛を奏でるシャンソンの歌声は、のどの奥を振るわせる深い表現だった。甘く切ないムードの漂う曲は、悲しさや深い情熱と肉体的な体温を感じさせる。
 店のママの受け売りだけれど、的を射ていて納得出来る音楽の例え方だった。
 かつては美少年だったと自分で言っている、今は三輪明宏ばりのメイクにドレスを身にまとったママの趣味で作った店だった。
 仮面舞踏会でも創造出来る中は、あちらこちらにピエロの人形が置かれている。
 華やかで上品なヴァイオレットやビリジアンのベルベットの布を、壁から幕のように張っている。
 フロアに張られた布と同じものを使われた家具には、骨組み木に天使の形になっていた。
 店に入っているバンドも歌手も、そして内装も店の趣旨もすべてママが決めているらしい。
 人と出逢いのきっかけは、一杯の酒があれば十分だ、とママはいつもそう言っている。
 そして今日もそんな出逢いを求めて、ここに集う人々が集まる。
 杯を交わしながら、口付けの一つでもすれば、今夜は最高の夜を迎えられる。
 ここは性別に関係なく、ただ素直に酒に酔い身体の快楽を求められる、そんな場所だった。
 店の名は、シャトン=B
 マダムは、私に似てかわいい名前でしょう? と華やかなドレスとメイクを身にまとい笑いながらそう言っていた。
 駅舎を越えれば、そこは昼は貞淑なオフィス街。しかし夜は大胆な色の街へ変化をとげる。
 シャンソンはあくまで恋愛のBGM。
 どんなに苦しい恋を伝えようとも、どんなに楽しい愛で包もうとも…。

  * * *

 鈴木春良は、カウンターを陣取り身体にじっとりとまとわりつく音を聞きながら、琥珀色のカクテルを口に含む。
 一人でいたくない金曜日の夜。
 そんな時はビールのような苦い酒よりも、ベルモットを多めのカクテルが心地よかった。
 カクテルの名は、アフィニティ。
 正確にはイギリス、フランス、イタリア三ヵ国の酒を使って、国同士の親密さを現している。けれど意訳は密接な関係≠ニ、少し色っぽい意味を連想させられるそんなカクテルだった。
 ムードや自分に酔っていると思われるかもしれない。けれど店に来る日は日常をすべて忘れて様々な物に酔いたかった。
 酒も…、ベッドの相手も…。
 人肌が恋しくてたまらない今日みたいな夜は、ベッドの相手を自分で探すより誰かに選ばれたかった。
 女性を抱くのでもなく、同性からぼろぼろになるほどに抱かれたい。
 あとくされない相手を捜すには、この店はちょうどよかった。
 甘い妙薬に包まれた店の客は、いつも誰かが誰かを求めている。人の温もりを求めてさまよい込む場所だった。
 シャンソンが甘い熱を誘い、心も躯も酔わせてくれる。
 男性でも女性でも初めてのお客様で来る物を拒まない。ここでは熱い口づけも、お互いの肌に直接触れることも許されていた。
 おかげで、噂を聞きつけて恋を探しではない客が店に迷い込んでも、熱に耐えられずに、三十分と経たず店にいられなくなるから気分をそがれることもなかった。
 今日はどんな男が声をかけてくれるのだろうか。
 仄かな期待を胸に春好はアフィニティを舐めながら、甘い少年がバンドに混ざり奏で始めたシャンソンに聞き入っていた。


「何を飲んでいるの?」
「え?」
 問いかける声に、春良は振り向くと今まで空席だった隣には、年齢は少し上、背格好は同じくらいの男が座っていた。
 悪くない…。瞬間の値踏みがそう伝えている。
 男は白ワインの入ったグラスを片手に、場所慣れしている雰囲気でテーブルに肘を付きながら笑顔を向けている。
「驚いた?」
 余裕を感じさせる男の態度に負けるような気がした春良は、本気で驚いたとも言えずに、戸惑いがちに首を横に振った。
「いや。あ、ごめん…。ちょっとだけまじめに曲を聞いていたから…」
「あ、そうか。いい曲だよね…。彼、ママの新しい恋人かな?」
「さあ…、どうだろう…」
 首を傾げながら、春良は微笑んだ。
 ママが気に入った歌手を連れてきて店で歌わせているらしいと言う噂が立っていた。もちろん皆それなりの歌を聞かせているから、真意の程は判らなかったけれど。それでも若い頃に歌手を目指して、美少年好きなママならそんな噂はいたしかたないと思えた。
「でさ、何、飲んでるの?」
 男が春良の飲み物に興味をもっているだけではないことは、場所が場所だけになんとなく伝わってきた。
 春良もここで男の言葉を額面通りに答えるなんて、野暮なことは考えていない。
 今晩の相手にしたいか、したくないかだった。
 春良は失礼にならない程度に、頬杖を付いて笑みを浮かべている男を見つめる。
 明るさを落とされた店の照明でははっきりとは判らないけれど、少ししわの入った綿のシャツに黒っぽいジーンズ姿に、柔らかい少し長めのショートヘア。
 格好から男がサラリーマンじゃないのは感じられた。
 一晩付き合うのに嫌いなタイプではないのは…。 最初の印象も悪くない…、むしろなかなかあたりの日かも知れないとすら思わせる。
 春良はもったいぶらせるように、少しだけ傾げている自分の首に手の平を添えて、友好的な笑みを浮かべながらカクテルを指差した。
「なんだか当ててみる?」
「じゃ、一口いい?」
 試すような微笑を春良は、浮かべる。
 男がグラスを手に取ろうとした瞬間に、少しだけ意地悪い表情で春良は自分で取る。
 グラスを取り損ねた瞬間に驚いた顔をする男。しかしすぐにそれも恋愛の駆け引きを理解し、男の表情が余裕を感じさせる笑みに変わっていく。
 恋愛慣れしている様子を感じさせる男に、負けている気がして悔しかった。
 挑戦するように春良はカクテル・グラスの中の琥珀色の液体を含んで、口の中の物をこぼさないように唇だけ引き上げて笑みを作った。
 それから身体はテーブルに向けたまま、首を傾げるように自分の唇を男の唇に押しつける。
 最初はそっと触れるだけ。
 しかし男は春良の意図を理解すると、少しだけじらすように唇を開き先にある液体を吸う。
 カクテルの味だけではなく、春良の口蓋すべてを味わうように蠢いている。
 絡まる舌と舌の間で行き来する、もう春良には判らなくなりそうな液体だった。
 アルコールよりも体温を熱くする、男の口付け。
 なかなかの味だと思えた。男の口の中の味も、そして唾液とブレンドされたカクテルも。
 男の唇がゆっくりと離れる。
 春良の離れがたさを語るように、男との唇を伝う細い糸のような唾液が切れた。
 男は物足りなそうな顔を浮かべながら、男は春良の口元へ鼻を近づけて、臭いを一回嗅ぐ。
 唇が離れてから、何かを考えるように一瞬間をおいてから、男はカクテルと春良の唾液できらきら艶めいた唇を開く。
「チンザノかな……」
「え?」
「君が飲んでるカクテルの中身…」
「ああ…」
 主題を忘れて、思わず男との口付けに酔ってしまっていた自分に恥ずかしくなり、春良は頬を赤くした。しかしそれを悟られないように、春良はテーブルに肘を突くと男を誘うように目を細めて首を傾げる。
「チンザノ? ああ、ベルモットだよね。良く出来ました。と言いたいところだけど…、それ以外は判る?」
「うーん、君の唇はとても甘かったけど…」
 男の恥ずかしい言葉に照明でも判るくらいに頬を赤らめながらも、悟られないように少しだけ眉を寄せた。
 別にふざけた言い方は嫌いではなかったけれど、それでもなんとなくそういう振りをしたかったからだった。
 ふざけた男は表情を戻して、春良の表情を伺う。
「ベルモットは判ったんだけど。オリーブ付いてないからマティーニじゃないし…。レモン…、レモンピールとか、ウイスキー…。うーん、降参していい?」
 ガイドなどに載っているアフィニティのレシピは、イギリスのバランタイン、フランスのアロマチックビターズ、そしてイタリアのベルモットをステアする。そしてカクテル・グラスに注いでからレモンピールを絞りかけるらしかった。
 必死に悩んでいる男に春良は、少しだけ余裕がある笑みを浮かべた。
「まあ、カンパリとかマティーニみたいに定番じゃないから…。答え、知りたい?」
「ああ…、そうだな…。でも場所、変えてから聞きたいな…」
 男はそう言うとクスクスと笑うと手を伸ばして、ズボンのファスナーを人差し指で何度かなぞってくる。
 驚きとそして期待が熱として、股間を意識させる。
 このまま男と共にホテルへ消えるか、それとももう少しだけ話をするか…。
 初な訳じゃない…。男同士の恋愛の駆け引きは、結婚や家庭だの責任が伴わない場合が多いからこそ、相手をしっかり選びたかっただけだった。
 欲望という名の熱が身体を包む前に、春良は男の手を離す。
「まだあんた来たばっかりじゃないの? それに…、グラス…、まだ残っているじゃん」
 少しだけ話をずらすように、春良は男の席に置かれてまだ半分も減っていないグラスを指差した。
 男は最初と同じようにカウンターに肘を乗せて、春良を余裕のある笑みで見つめる。
「君はまだここで話をしていたい? もっとお互いの事納得してからじゃないとつきあえないなら、話に付き合うよ?」
 常に余裕があるふてぶてしい男の笑顔。何処までも男のペースに引きずり込まれていく。
 男の態度に春良はすぐに、しゃれた恋愛の駆け引きも反論も出来ず、ただ息を飲むしか出来なかった。
「何か質問があったら答えるよ?」
 笑顔で訪ねられる。言葉では勝てないと…、負けを認めないといけないことに気付かされる。もうこれ以上春良が男を拒む理由が見つからなかった。
 春良は小さく息を吐くと、負けを認めたと肘を胸の所で曲げたまま両手を上げる。
「負けたよ、出ようか…。あ、そうだ重要な事を聞くの、忘れていた」
「何だい?」
「今晩は俺を楽しませ出くれるんだよね?」
 クスリと笑みを浮かべた。その後、男は一気に残っていた飲み物を煽ってから、もう一度不適な笑みを浮かべる。
「明日起きれなくなるくらいに、君の躯を埋め尽くして上げるよ」
 春良は少しだけ頬を赤くした後、男に負けないくらいの余裕をみせる笑みを作る。
 いやな悔しさではなかった。それでも完全に負けを認めたくなかった春良は、値踏みをしている猫のような笑みを浮かべながら、男の肩に両手を回し男の下唇を挑発するように、軽く噛んだ。
 味見、これは今晩もっと深いところまで繋がり合うための。
 唇が春良を導くように開かれて、男の舌が絡まりそして口腔を探ってくる。
 これ以上はお互いにまずいと思わせる前に、離れる唇。
 優しい物腰とは裏腹な、男の強さが感じられ、春良の今晩への期待が高まってくる。
「判ったよ…。楽しみにしているよ。あ、それともう一つ」
「何?」
「何を飲んでたの?」
 男は一瞬予想していなかった質問に驚きを見せた後、また表情を笑みに戻す。
「普通のドイツワインだよ…。ドイツワインの白。でも英語の名前が付いているヤツ…」
「で、名前はなんて言うの…」
 男は春良の耳元に囁くように言葉を吹きかける。
 ナイトミュージック=B


 今宵にぴったりの名前だった。
 春良は男に背を支えられたまま、勘定を済ませて店を出る。
 男が一人で精を楽しむ店や個室は多くても、二人で熱を楽しむホテルが少ない新橋。
 ビジネスホテルやカプセルホテル、それにビジネス用の旅館はいくつかあったけれどもせっかくの出逢いにそんな野暮な場所は使いたくない。男はそう言ってタクシーを拾った。
 新橋から離れていくタクシー。
 それでも新橋は賑わっている。
 そして店では新たな恋を求めるように、シャンソンが甘くそして切なく流れていた。
 

Fine

そんな言い訳していいわけ?

この小説は、8月のイベントで配布した小説です。
JGARDENの予告で出したときはかなり不安だったのですが、
何とか無事に本になりそうです。



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