上海狂詩曲 しゃんはい らぷそでぃ〜 |
0.天井桟敷の人々
『ここからの眺めはいつも変わらない。滑稽だとは思わないか? 玲瓏…』 美しい梨の花をモチーフにした細工が施された窓枠ごしの世界。 にぎやかで、今いる闇と沈黙に包まれた場所とは、まるで次元が違っているかのような華やいだ世界…。 亡くなった父の遺品である最高級の黒シルクの地に、金糸で上り龍をあしらった中華服に身を包み、鴉の羽色のごとき漆黒の髪をポマードでなでつけた來・玲瓏、レオンは、二階の特別室の窓辺に腰掛けた。 せっかく温めた安物の老酒が冷めるのも気にせずに、観光客でひしめき合っている一階フロアを、中華風に梨の花の細工された柵越しに眺めていた。 麗風楼…。 この店の主人であるレオンが毎日見つめる風景。 代々、それこそ千年以上前から続く店の先代主人であった父に連れられて、レオンは物心付く前からこの店には来ていた。 "お前がこの店を守って行くんだよ…"それこそ、何度と無く父はレオンに告げた。 十五年前のあの晩、いつもの様に店に呼ばれ、十五になった祝いだと、この部屋に招き入れられた。父は息子の成長を喜びながら、"これは粗茶の変わりだ…"そう云って温めた老酒に氷砂糖を入れたものを彼の情人で、この店で一番を誇っていた"シエ雪"に作らせた。 始めて入った主人の部屋と、店の切り盛りで忙しく滅多に話すこと無い父。そして、ずっとあこがれていた存在の"雪"と酒を酌み交わしたあの日が、今でもレオンには忘れられない幸せな思い出だった。 あの日、父は今のレオンと同じように窓辺に腰掛け、今日と同じように観光客でひしめき合っている一階フロアを眺めていた。 表と裏の顔を持つ麗風楼は、あの頃とあまり変わらない風景だ…、と目の前に広がる景色を見つめてそう感じた。 この麗風楼は店舗登録上、レストランバーの区分に入り、各国の上海観光ガイドにも多く紹介されているくらいの店だった。 観光客でひしめき合う一階のフロアは、紅色に龍を描いた絨毯に、黒と朱塗りに貝細工をあしらった家具と間仕切りが建ち並ぶ同業他店との格の違いを物語っていた。 ガイドブックのこの街の歴史として説明されている阿片戦争以降のジャズと酒、娼婦と阿片が横行していた時代の雰囲気をそのまま残す造りになっていた。 フロアの上手にはバンド席も用意されてあり、客たちは歴史に浸りながら、スタンダードなジャズを楽しみ、美味い点心に舌鼓を打ちながら、酒や飲み物を楽しんでいた。 しかし、この店にはそんな一階で楽しんでいる客が想像できない所…、それが、今レオンがいる場所だった。 一階からは紅色のカーテンに覆われ、そして飾り窓程度にしか見えない二階の部屋。その二階は、ホテルのプチスィートクラスの部屋が十室用意されていて、酒や演奏だけではなく、ここは治外法権、この国の法律が適応されない遊びが楽しまれていた。 賭博…、そしてこの麗風楼にはもう一つ、"上海麗人館"と云う別名を持つ、男娼館と云う顔があった。 最初は皇帝や政治のためなどの理由で店が創業し、時代は移り社会主義になって、政府やその要人の情報収集にも使われていた。しかし、現在の資本主義的社会主義に変わり、この店はまた別の表情を見せるようになった。 レオンが知っている限りでも、この二階では一階で想像できないくらいの駆け引きをまるでカードゲームでもしているくらいの気軽さで、男を楽しみ、時勢を楽しんでいた。 そして、今も部屋に用意された閨でここに働いている男たちを、誰かが抱いている。 そんな特別なこの店だからこそ、客を選ぶ権利を持っていた。 客はここの主人に選ばれたものだけのみ入ることができ、許可されたものだけが通れる一階と異なるどころか、各部屋違う入り口から部屋へ客は向かった。 専用の階段を通って、二階に上がった部屋には花の名前が付いていて、内装もさながらかつての皇帝の住まいのごとくの装飾が施されていた。 いくつもある中で、中央にある梨花の間と云う部屋が、今レオンがいるところの名前だった。 内装は、真白き梨の花とはまったく違い、黒と紅で統一され、灯りがついていなければ闇に包まれる。 その暗闇の中で静かに一階を眺めていた。 父と飲んだのは、ここに初めて入ったあの日だけ、一回きりだった。 傲慢な父だったが、この店にずっと囚われている人で、代々続く店の重さに押しつぶされてしまった。 そんな父のその横で、"雪"はいつも優しく微笑んでいた。 ここで働く多くの男たちとは違って、"雪"は派手ではなかった。けれどこの部屋名にも使われている梨の花のように美しい男だった。 きっかけは知らないがこの店で働き、父の情人となった"雪"は、いつも苦労しているはずなのに、名前とは反対に、いつもまぶしいくらいの微笑みを浮かべていた。 "雪"…。 レオンは無意識に、右手を大切に包むように、左手で触れていた。 「何、ぼーっとしているの? レ・オ・ン。電気も点けずに…」 部屋に置かれた行燈すら点けていない場所で、窓の外からの光を受けて、浮き立つレオンの顔をのぞき込むと、淡い葡萄色の地に華やかな牡丹の刺繍が見事な中華服を着た葉・密成、ミッシェルが声をかけた。 レオンよりも身長は高いが、細身の身体。 腰まで伸ばされた直毛の黒髪をまとめた部分に艶やかな牡丹の花飾りを付け、体型があらわになる女性の服と少しだけ異なっているが、それでも上品な中華服を着こなす細りと容貌は、それ以上妖艶で美しく感じられた。 しかし、それよりも印象的なのは、亜細亜系とは異なった彫りの深さと、印象的なはしばみ色の瞳だった。西洋と東洋の入り交じったその容姿が、露西亜と中国の血が混ざり合っていることを意味していた。 いつミッシェルがここに現れたか、気付かなかった。 自分の所行に心の中では苦笑しながらも、表情は、いきなり現れたミッシェルへの驚きは出さず、手にしていたもう冷め切ってしまった老酒のグラスを、何もなかったように口に運んだ。 何の反応も示さずにただ酒を飲み始めた姿に、ミッシェルは奇麗に化粧をした唇をすねるように尖らせる。 レオンは時々こうやって自分だけの世界、誰にも入り込めない場所に行ってしまう。そんな寂しい男の姿を愛しく思ってしまう自分に苦笑しながら、レオンよりも十センチ以上高い身長をかがめた。自分の服が着崩れるのも気にせずに、抱きついて肩に両手を回すと、ポマードでなでつけたオールバックの髪に何度も音を立てて口付けてから、淫猥に耳を舐りながら、息を吹き込みように呟く。 「もう…、せっかく驚かそうと思って息を忍ばせたのに…、驚きもしないんだね…」 抱きつかれているにもかかわらず、それに応えようともせずに、身動きひとつせず、ただ酒を飲み続けているレオン。 「またそんな安い酒飲んでるの? あなたほどの人が…」 老酒…、年代ものの紹興酒に角砂糖を入れて飲むのは、中国では粗茶、お茶を飲むのと一緒で、ましてそれに氷砂糖を入れるのは、安い酒の味に味と香りをごまかすために入れてるとされている。 それこそ、この店の主人で、他にもこの世界的な不景気な中で成長している貿易会社を経営していてどんな高級酒をいくらでも飲めるレオンが、この安い酒にこだわる理由を知っているミッシェルは、そんな朴念仁のグラスを強引に奪うと、動かないままの唇を熱い息を吐きながら貪っていく。 わざと官能を燻るように、舌で舐りながら口付けるミッシェル。 レオンの唇に紅が移り、鮮やかな色にどんどん染まっていく。 ミッシェルはゆっくりと、まるで味を楽しみむように、レオンの唇を少しずつ割り、舌で歯列を開かる。 ゆっくりとレオンの舌を捕らえると、唾液が混ざり合うほどの濃厚な口づけをする。その動きになすがまま、自分からは指一本動かそうとしないレオン。 そんな余裕とも思える態度に、苛立ちを感じミッシェルは、向かい合わせになり窓の桟に腰掛けたレオンをまたぐように座ると、自分の猛り始めた腰をすりつける。 そうして、まだ無反応なレオン自身をズボンの上からゆっくりと官能を引き出すように揉みしだく。もう一本の手で、レオンのオールバックにきちんとセットしてある髪をかきむしると、まだ足りないと云わんばかりに口腔を貪っていく。 「仕事はどうしたミッシェル?」 しばらくなすがままにしていたが、ミッシェルの唇が自分の首筋に下りると、何も感じていないとばかりの低い冷静な声でレオンはそう告げた。 いきなり引き離されたミッシェルは、小さく溜息を付くと乱れて自分の肩に掛かった髪を払い、手早く直す。 「お仕事ね…。これから行こうと思っていたのよ…」 そう呟きながら拗ねて自分を見下ろしているミッシュルに、わざと気付かないかのような無表情のままのレオン。 あまりにも無愛想な姿にミッシェルは離れるのがまだ名残惜しくなり、ニコリと笑うと、立つ瞬間にすかさずレオンの唇を盗んだ。 「仕事に行って来ます〜。でも、お仕事が終わったら、楽しみましょうね、レ・オ・ン。約束よ」 大きく表情を変えないまま、静かに頷くのを確認すると微笑みながら、出口に向かいドアの手前で足を止める。 「それにしても、今日はどうしちゃったのかしらね〜。いつも以上に冷たいわよ、レオン」 "また亡霊とでも酒を酌み交わしているのかしら…"、レオンに聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟いて、ドアを閉めた。 『亡霊か…』 ミッシェルが"雪"のことを云ってるのだ、とレオンには直ぐにわかった。ずっと"雪"のことを忘れられないでいるのをミッシェルは知っていた。 始めて父と雪と酒を酌み交わした翌日、二人は外灘に身を投げた。 その時、今まで支えられていると思った人間を失い、麗風楼と云う重い枷をつけられ、ぼろぼろになっていた。そんな自分自身を救ってくれたのが、まだ店で男娼としては働いていなかったミッシェルだった。 最近はそんなことすら思い出す時間も無いくらい忙しかった。 思い出してしまったのは、あの青年に逢ってしまったからだ…。 さっき一階のフロアに用があって行った時、"雪"そっくりの若者と話をした。 その若者は、たぶん黒の中華服にオールバックの自分を、従業員だと思ったらしく、日本語でゆっくり口を開く。 『あ、あの。帰りたいんだけど、出口って…、どこかな?』 口調は"雪"みたいな上品な物言いではなかったが、顔や雰囲気だけではなく、声までも似ているような気がした。 いつも明るく微笑んでいた"雪"…。 その驚きは言葉が出ないほどだった。 返事ができないほど戸惑っているレオンを、若者は日本語がわからないのだと思ったらしくしばらく顔を凝視した。そして何か考えついたらしく、おもむろに右手を取ると人差し指で"出口何処"と書き始めた。 レオンは若者の顔を立て、あくまで言葉が通じないふりをし、中国語で出口まで案内すると、彼が見えなくなるまで見守った。 ただ"雪"に似ていただけの若者に、こんなことで狼狽えるなんて自分らしくない…。 そう思いながらテーブルに置いてあったシガレット状の葉巻を口に運び、一服した。 レオンしかいない暗い部屋には、窓から照らす光と、そして紫煙が立ちこめる。 レオンの右手にはあの青年のぬくもりが残っていた。
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そんな云い分けいいわけ?
2003年3月30日に出る新刊のプロローグです。続きが読みたい! なんて思われる奇特な方は、宜しければ、通販の申込をお願いいたします。 と云って、逃げる音野であった…。 |
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