愚者の楽園 悩める子羊の集う場所

〜プロローグ〜
「あ、彩=H 俺、拓己だけど。今晩、暇? え? 今? 仕事中だけど…、あ〜ぁ〜、切るなよ!! 切れちゃったよ〜」
 プープープーと、耳に伝わる冷たい電子音。
 日野拓己は、唇を尖らせながら携帯電話を耳から外すと、溜息を付きながら切断ボタンを押した。
「いや、めげちゃだめだ、めげちゃ! 人生はプラ・マイ・ゼロ。良いことがあれば、悪いこともある…」
 他人に聞こえるのではないかと思えるような、大きな独り言を呟いた。
 拓己は両手で握り拳を作って、自身に気合いを入れるため振り上げながらおしゃ〜≠ニ叫んだ。
 それから気合を入れ直すと、もう一度携帯のアドレス帳を開き、彩の次にある絵里子≠選んだ。
 耳に響く呼び出しのコール。
 期待に胸を弾ませならが、電子音を繰り返し聞いていると、背後から呆れ気味の声。
「…何、やってるの? こんな所で…」
 慌てて拓己が振り向くと声の方向には、苦笑混じり、眼鏡の下に深く眉を寄せて立っている男一人。
 げっ…。保科久高四冠!!
 拓己は誰でも判るくらいに、はっきりと苦虫を噛みつぶしたような顔に表情を変えた。
 あんたの対局は、今日じゃないのだろう…。
 思わずむかついて睨み付けたい気持ちと、神のような四冠を敬わなくては行けない気持ち。二つの思いにさいなまれ拓己は、ますます複雑な顔をする。
 彼はどこから見えてもラフに感じるスーツ姿だった。
 何しに来たんだよ〜、思わず心の中で悪態を付いた。
 だいたい彼は、見た目からよろしくない。
 トレードマークにもなっている、上の部分だけフレームが付いた細い目が眼鏡。
 メガネの先では、何もかも奥の奥まで見透かすようなすました瞳にふてぶてしい表情。
 体型はそれほど大柄ではない、見た目はどこにいそうなにーちゃんそのものだった。
 けれど、千駄ヶ谷にある将棋会館や様々大局をしている場所で見ると、現在四冠という迫力と有無を言わさない威厳のある雰囲気で威圧してくる。
「げげっ…」
 思わず本音を伝えるような自分の声に驚き、拓己は慌てて手で口を止めた。
「げげって…、ったく…、なんじゃそりゃ…」
 保科は軽く眉を寄せ、それから拓己の弱みを握ろうとにやりと笑う。
「日野五段はこんな所で、何やってるんだい?」
 いやみな笑顔。
 拓己が何をしているのか、判りながらからかっている、保科からはそんな楽しげな雰囲気の伺えてくる。
 雰囲気ではない。保科は絶対に楽しんでいるのだ!
 腹立たしさを胸の中にぎゅーっと抑えて、拓己は自分を制御するように息をゆっくり吐いた後なるべく冷静に見えるようにゆっくりと電話を切った。
 落ち着け、落ち着け、ここでぼろを出したらきっと次は何をされるか判らない…。
 拓己は身体の筋肉と言う筋肉を緩ませて、休めをするようなだらけた姿勢を変え、慌ててピッと真っ直ぐに立つ。こっそちと携帯を耳から離して、規則正しい挨拶をアピールするように、深々と学校でもしない程で礼をするように頭を下げた。
 あまりに極端から極端と言ってしまえば、身も蓋もない行動。
 露骨な態度に保科は、ますます眉を潜める。
「別にとがめているわけじゃないけどさ…。今日、おたく、対局してるんだと思ってたんだけど…、間違い?」
「あ、はい…、まあ…、あっ…、そう何ですけど…」
 適当に頷く言葉ではっきりとした返事を誤魔化して、見つめる視線から逃れるように俯いた。
「なのにいいの? こんなとこで電話してて…」
「いや…、その…」
「日野五段は、もしかして私との約束を忘れている訳? じゃないだろうね?」
 もしかして≠ニ忘れている訳≠ノ、わざわざアクセントを付けて嫌みな言い方。
 殴ってやりたいと言う思いをぐっとこらえて、慌てて拓己は否定する。
「ち! 違いますよ! お、お、お、覚えています、覚えてますとも…」
「じゃあ何でここでサボってるの?」
「サボってなんかいませんよ…。あ、え、ああ、そうだ! そろそろ藤原さん、次の手を打ったかな」
 一回ポンと両手を叩いて鳴らした。
「失礼します」
 深々と頭を下げた後、こういう時は逃げるが勝ちとばかりに、後ずさりしながら脱兎のように逃げる。
 最低な日、こんな気持ちじゃ、今日の対局、まじに落とすかも…。
 さいてー…。
 今日、対局で負けるとまじにやばいのだ…。
 将棋人生と言うよりも、自分の貞操が…。


 ここは東京、千駄ヶ谷にある将棋会館、対局室もある四階。
 棋将戦、挑戦者決定トーナメント五回戦。
 現在、藤塚仁史七段と対戦の真っ最中。
 藤塚が長考に入ったのをいいことに、拓己はこっそり対局室から抜け出した。
 理由は説明するほどすごい事ではない。簡単に言うと、まぁ、勝つための願掛けだった。
 他人が聞いたら、絶対にぎょっとしそうなものかもしれない。
 これは言い訳にしか過ぎないけれど、勝負の世界に身をおくものなら絶対に一つくらいはもっているものだと信じるしかなかった。
 まして将棋なんてなんても先を考え、何度も頭の中で対局が終わるまでの投了までの絵図を描きつづけなくてはいけないのだ…。
 あまり大げさに言っても自分が情けないので、言い訳はここまでにして…。
 まあ、単純に言うってしまうと身も蓋もないけれど、今日の運を引き寄せる為、というか現在ナンパ≠フ真っ最中だった。
 それなりの男の子だし〜、やっぱ寝るんなら一人寂しい部屋で休むよりも、温かいサイズは別に問題じゃなく女の子の胸に抱かれたい〜。
 これ男の願望。
 それにはやっぱり女の子が必要で。
 対局なんて緊張した時間を長時間過ごしていると、羊のようなふわふわ〜な女の子に抱っこされていいこいいこなんてされれば天にも昇る気分。
 拓己の願望をかなえるためには女の子が必要で、まして今まで対局後に一緒に寝る女の子が決まっていなかったときに負けは無し!
 と格言が出来るほど、自分でも信じられないほど、今晩の相手探しにはパワーがみなぎってくるのだった。
 幸い普段は何組かが同じ部屋で対局しているけれど、神も拓己の味方している。
 今日は何と藤塚七段と二人きりの個室。
 滅多にないこのチャンスを逃す訳にはいかず、いつもの願掛けをしに携帯電話を持って早速廊下でコーリング。
 今日はどんなことがあっても勝たなければいけない。
 勝って、大好きな女の子のぼよーんとした胸に抱かれながら寝のだ!
 拓己がこんなに鬼気迫る状態になったのは、理由があった。
 もちろん将棋の棋士として、勝つに越したことはない。
 いや、当然勝つために最善の策を練ってくるのは普通の話。
 しかし今日は、超・特・別。
 すべてあ・の・最強にして最悪な保科久高四冠の所為だった。
 保科が変なことを言い出さなければ、拓己はこんなに切羽詰った戦いかたはしていないだろう…。
 あぁ〜、思い出しただけでも腹が立つ!!
 手にしていた携帯にやつあたるように思いっきり握った後、拓己は息を吐いた。
 仕切り直すように大きく深呼吸をして、精神統一をする。
 そして携帯のアドレス帳の中から絵里子≠選択すると、コールボタンを押した。

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