「有り難う御座いました」
軽く頭を下げ、須藤 寿晴(としはる)は防音室を出る。
すれ違いざまに、毎週顔を合わせる12時からレッスンが始まる小学生の女の子が母親に見送られながら中に入って行く。
土曜日昼のもう在り来たりになってしまった光景。
家の近くにある幼稚園を使って行(おこな)っているヴァイオリン教室。
ヴァイオリンを習い初めて3年とちょっと経ってしまった。
最初の1年は基礎を教える初心者向のグループレッスンを午前10時から12時まで受けていたが、その後は今の先生について午前11時30分から30分間個人レッスンを受けていた。
始めた頃は折角始めたのだから毎日少しでも楽器に触れないといけないとか、早く何かを弾けるようになりたいとか色々と思って、家で毎日少しでも時間をつくって練習をしていた様な気がする。
しかし、今では練習をするどころか楽器(ヴァイオリン)すら開けなくなった。
今は、辞める手続き(受付や先生に止めると云うだけなのだが...)が面倒なのもあってだらだらと続けていて、大人の手習いにしても確か始めた頃は夢だとか希望だとかが有ったような気がするが、何がきっかけで始めたのかも、もう既に忘却の彼方へと消え去っていた。
この幼稚園は、幼稚園運営の他に、器楽、声楽のレッスンやバレエや踊り、カラオケ教室と幅広く行っていて、一階の入り口直ぐに受付のある事務所と大きめの部屋が1つ、二階には小さめの防音室が2つ(ここでヴァイオリンだのピアノだの器楽、声楽のレッスンを行う。)と防音では無い小さめの部屋が1つ、中位の部屋で通常は園児が遊べ、ヴァイオリンの教室ではグループレッスン用に使われていた。
生徒の年齢も幅広くて、下は3歳くらいの子供から上はかなりの年輩者までが通っていた。
ふぁ〜。
2階にある防音室から1階の事務所に向かう階段をぼーっと降りながら、大きな欠伸と共にレッスンの間の緊張で忘れていた眠気が復活してくる。
眠い...。
夕べは中国に有る織物工場とのやり取りが長引き、終電に慌てて飛び乗り、やっと帰宅。
寝たのは明け方近かった。
須藤の会社は下請けの工場で織らせた布地の販売やその布地を使った服飾の販売まで行っている大手の繊維会社で、須藤の仕事は、海外の工場に布地を製作させる指示をだす仕事だった。
海外の工場や販売業者とのやり取りが多い須藤は、仕事が海外の時間で動く事が多いので、昼と夜が逆転したり、そこまではなくても帰りが遅くなったり、朝早く出勤しなくてはいけなかったりと勤務時間はまちまちで、時には出張などもある。
それでも何とか休むと月謝が勿体ないと自分に云い聞かせ、ヴァイオリンのレッスンはだらだらと続けていた。
ふぁ〜。
もう一度大きな欠伸が出る。帰ったら風呂でも入って、少し寝よう。
ぼーっとした頭で考えながら、受付に置いてあるレッスンカードを受け取ろうと階段を下りると、いつもは事務をやっているさだまさしファンの気のいいおばさん...近藤しか居ないせいか閑散としている事務所の回りが、今日に限っては出入り口が見えないほどの物凄い混雑だった。
それも(ここ強調)!
その混雑の原因がよりによって”大嫌いな子供”の群、そして、その子供を野放してしゃべりまくっている”その子供の母親らしき集団”のせいで、受付すら見えない所か階段を降りられず立ち往生してしまった。
なんなんだ〜、こいつらは!!
眠気も手伝って苛立ち、最悪な気分になっていた。
須藤は”自慢じゃないが子供が大嫌い”だった。
それでもここに通っていられるのは、この幼稚園は土曜日は休みなのか、大嫌いな子供が土曜日には余りいないからだった。
「お父さん!」
いきなり見知らぬ子供がへばりついてきた。
”げえ止めてくれよ...。”
眉根を須藤が寄せると、その子供はいきなり泣き出した。
「え〜ん。お父さんじゃない!!!」
須藤はギョッとしながらも”当たり前だ!自分も親も判らないのかこの子どもは!”
そう怒鳴りたい気分だったが、子供に文句を云うのも大人げないと思い、ただ無言で睨み付けた。
そうすると子供は更に大泣きをし始めた。
しかしこの子供の母親はその子供の様子に気づかずに、他の母親とのしゃべりに没頭している様子だった。
この不愉快きわまりない状況に須藤はうんざりしながらため息を付いた。
「...真希ちゃんどうしたんだい。ほら、早く外に出ないとお餅つき始まっちゃうよ」
背後から突然声がし、気づくとそいつは須藤の横をすり抜けて、子供の正面にしゃがみこみ、優しく子供の頭を撫でていた。
「ほら、泣いてないで、早くお靴履いて。ね」
子供が泣きやんだのを確認して、そいつは立ち上がり、優しく周りを包むような声で叫んだ。
「お母さん達も他の教室の生徒さんのご迷惑になりますので速やかに外に出て下さい」
そいつのその声にだらだらとしゃべり続けていた母親の集団は、頬を赤らめながら慌てて自分の子供の靴を履かせ初め、外に出て行った。
不愉快な存在が消えてほっとしていると、そいつはこちらを向きにっこり微笑んだ。
そいつのその笑顔に体温が上昇していくのを感じた。
こいつ、男だよな...?たぶん。
そいつはつい見とれてしまう様な綺麗な顔で、その笑顔は赤面する位のさわやかな、少女漫画で云う所の爽やかなシャンプーの香りのする風(かぜ)の流れる様だった。
「すみませんでした。今日人手がちょっと足りないモノで手際が悪くて。ヴァイオリン教室の方ですよね?レッスン終わられたんですか?」
「はぁ。まぁ...」
「あの、よかったら、餅食べてきません?これから餅つきなんですよ。幼稚園の行事で、時間あるなら一緒にやりましょう」
須藤はそいつの笑顔にぽぉーっとなりながら”ああ...。”と空返事をした。
「本当ですか!?スドウ...いえ、男の方が手伝ってくれると助かります!!」
そいつは須藤の無意識の返事に嬉々(きき)として答えた。
「え?」
「お餅つきです」
「ああ、餅つきね...」
トホホ...。
不覚にもこいつに赤面し、ぽぉーっとなって仕舞い何を話しているか理解する前に相づちを打ってしまった。
しかし、今更、こいつのこの人懐こい瞳で、誰にでも好かれそうな優しい黒い光彩が印象的なこの瞳で”須藤の事を期待している”と云わんばかりに見つめられ、須藤は嘆息した。
そして追い打ちを掛ける様な声が響き渡った。
「あら、須藤さん、時間があるなら餅つきを手伝って上げてよ。ほら、あたしぎっくり腰やったでしょ、だから力仕事出来ないし、風邪で手伝いの人が休んじゃって、男手は澤口先生だけで困っているのよ。よかったわね、澤口先生。あたしも出来るだけ手伝うから...。須藤さん宜しくね。楽器は預かるわ」
突然聞こえたのは、事務所からこの学園の事務をやっている近藤さんの声だった。
寝ぼけた頭で展開の唐突さに驚きながら須藤が思った事は...、”やっぱり男か...。”
だった。
そんな惚(ほお)けた事を思っている間に、近藤は須藤の意見も聞かずに、話をどんどん進めて行き、須藤が気づくと持っていたヴァイオリンケースの代わりに、赤くてかわいいエプロンを握らされていた。
そして近藤は澤口と須藤に楽しそうに手を振った。
須藤はただこの強引な展開と今日の運の悪さにただ苦笑し、ため息を一つ付き、澤口はその様子に”クスッ”笑った様に見えた。
「何のお餅食べられますか?」
澤口の晴れやかな叫び声。
さっき以上の笑顔で子供の母親達と楽しそうにつきたての餅を取り分けていた。
「あ、甘いのはちょっと...」
そう叫び返すと、”解りました”と返事が戻ってきた。
餅つきがやっと終わって、睡眠不足に重労働、おまけに大嫌いな子供達、そして一番苦手な人種のその子供の母親達と三重苦、そして澤口...と四重苦。
予想以上に体力を消耗を感じ、げっそりとしベンチに腰掛けていた。
今日二度目の大きなため息をついた。
気分を変えようと須藤は胸のポケットから煙草を取り出した。しかし、辺りに灰皿や代わりになるモノは無く、嘆息しながら煙草をあきらめた。
やっぱ子供の前じゃ...まずいか...。
頭を抱えている須藤の周りでは、須藤の気持ちも知らずに不愉快なくらい元気で楽しそうに子供とその母親が餅を食べながらはしゃいでいる。
トホホ...。
その日三度目の”トホホ”だった。
そんな母親と子供達にも好かれていて、いつも優しい笑顔を絶やさない澤口は、きっとこう云うのが向いているんだろうな。コレで女だったら...。
でも本当に男には勿体ない程の綺麗な顔をしている。
あの大きな瞳に真っ黒な光彩。自然に流れるさらさらとした清潔な黒くストレートな髪。
男にしては少し細身で背丈は俺より10cmくらい低い感じだから170cmくらい、それに色白で会社の女達が羨むだろうと思える容貌をしていた。
しかし...。あの子母親達の中にいても眼を引く、これって澤口の魅力なんだろうな...。
”澤口のその魅力に騙されたんだもんな...。”そう思いながら、今日何度目かの苦笑をした。
そんな澤口とは正反対で、周りではしゃいでいる子供達や母親達が、直接話掛けられない雰囲気で、遠巻きに須藤を眺め脅えているかの様だった。
須藤の切れ長の三白眼は、昔から本人の自覚もなく、睨んでもいないのに一瞥(いちべつ)しただけで近くの人間が謝って来る様な須藤の瞳は、澤口と一緒にいると極悪に見えのだろうか...。
「お待たせしました。からみ餅とそれと缶ですがお茶です。どうぞ」
「あ、有り難う」
澤口はそれを須藤に渡すと慌ただしそうにUターンした。
「あの、すみませんがちょっとここで食べていてくれますか?俺、園児達を見送らないといけないので...」
餅とお茶と笑顔の残像を置いて澤口は行ってしまった。
須藤は、お茶の缶を開け口に運びながら、葉が落ちて寂しさの感じられる木々を眺めて、暖かい真冬の太陽を感じながら大きく伸びをした。
雲一つない良いお天気だった。
園児と園児の母親を見送った、澤口が自分の分のお茶と餅をもって戻ってきたのは、須藤が飲み終わったお茶の缶を灰皿代わりにし、やっと一服し始めた時だった。
餅つきの片づけも終わり、嵐が去った後の様に人気のない幼稚園の庭は、園内から響く微かなヴァイオリンの音とカラオケ教室の演歌が聴こえているだけでのんびりとしていた。
「あ、煙草...、大丈夫ですよね?」
”どうぞ”の代わりの笑顔をもらうと、須藤は煙草を口に運び、紫煙を吐き出した。
「今日は本当に有り難う御座いました。手伝って下さるはずの先生が風邪でダウンしてしまって、助かりました。スドウ...、えーと...」
「須藤 寿晴、須藤です。澤口さんですよね?」
「ええ、澤口 しずかです」
「ここで働いているんですか?」
「ええ、あ、保父です」
「へぇ、珍しいですね、大変じゃないですか?」
「どうでしょうか、俺は子供好きだし」
「確かに、今日の様子だとあなたにあっているみたいですね」
頬を赤らめにっこり微笑みながら澤口は、”ありがとうございます”と云った。
「須藤さんはヴァイオリンの個人レッスンを受けてるんですよね?今、何の曲やってるんですか?」
「え?何だったかな?」
「何の教本やってるんですか?」
「スズキの5巻、3曲目かなんかだよ。て、云っても判らないか」
「スズキのヴァイオリン教本ですか?じゃ、ビバルディの協奏曲ト短調ですね...」
「かな?詳しいですね」
澤口は目を細めながら首を傾げ微笑んだ。
「ところで、須藤さんってこの教室以外にどこかでアンサンブルとか、オーケストラとかって参加されています?」
「え、いや?」
「オケとか興味あります?」
「あんまり聴きには行かないけど...」
「あ、聴く方じゃなくて、やる方って考えた事あります?」
「え?まさか...。オケなんてそんなレベルじゃありませんよ」
「でも、スズキ5巻ならアマチュアのオケとかなら大丈夫じゃないですか?ポジション移動やビブラートの練習もあるでしょ?」
「ええ、まぁ。でも、出来ませんよ、ここの練習だってよく判らないし」
「今日18:30から22:00くらいまでお時間有りますか?」
「え?今日は一日暇だけど...」
「じゃあ、今日よかったら区民オケの練習に遊びに来ませんか?見に来るだけでも良いですけど、一応楽器は持ってきて下さいよ。一緒にやってみると違いますよ。まあ、須藤さんのご都合が宜しければなんですが...」
”今日?いいよ別に行っても。その後参加するかは別で良ければ、オケの練習に...”
須藤さんは優しく笑ってそう云ってくれた。俺はそれがとても嬉しかった。
自分でもかなり強引だなと思いながら誘ったのに...。
幼稚園の保父になってもうすぐ4年目の卒園式を迎え、再来月の3月に26歳になる。
ここの幼稚園の人達は皆いい人だけれど、時々思うことは、ここはやっぱり女性を中心とする職場なのだ。と云うことだった。
男性の職員は、保父では俺だけで、ここを経営している園長先生、そしてときどき雑事を手伝ってくれフルートを教えていて俺より4つ年上の吉野先生。年輩でカラオケを教えている田中先生の4人しかいなかった。後は全て幼稚園の職員も、他の教室を教えている先生も、事務所の職員も、皆女性だった。
女性職員と職場で話はするけれど、やはり女性と男性の感覚の違いなのか、話が微妙にずれ、少しだけだが寂しい思いをしていた。
それがいつ頃だったのだろうか。
毎週土曜日11:25頃に、眠そうな目を擦りながら黒の四角いヴァイオリンケースをかついで来る、須藤さんを見かけ、そしてそんな須藤さんを見るのが毎週楽しみになったのは...。
最初は社会人で同世代の男性生徒が珍しくて、気になってはいたのだけれど、毎週ただこっそりと事務所から見つめるだけだったが、事務所から見る須藤さんのいる風景はとてもいつも楽しかった。
子供が好きらしい須藤さんは、子供がいるといつも優しい目をしてじっと子供を見守っている。子供に対して物凄く気を使っているのが判った。
この幼稚園が休みの土曜日でも子供の遊び場として開放しているので、子供が遊び場としても使っている。
そこで子供が遊ぶ姿を須藤さんの銀縁眼鏡の下のきりりとした切れ長で涼やかな瞳は、いつもとても優しく子供達を見つめている。
何故だか解らないが、ずっとそんな須藤さんと話をしてみたかった。
そして今日、運良くそのチャンスに恵まれた。
”じゃあ約束ですよ。18時に駅前の交番の前で待ってますから必ず来て下さいね”
それがオーケストラに足を踏み入れるきっかけになった澤口との約束だった。
あの日眠気も手伝ってか、澤口のあの爽やかな笑顔に動揺し不覚にも餅つきを了承した時の様に、考えなしに返事した自分を悔やまれる日々...。
あれから早半月、あの約束を何度と云っていいほど後悔した。
はぁ〜。
今日、何度目かのため息を須藤はついた。
今のため息の原因、目の前に広がるっているチャイコフスキー『交響曲 第五番』のセカンドヴァイオリンの楽譜と格闘しながら...。
演奏会があるのは7月末の日曜日、今はまだ1月末だからまだ約半年くらい時間はあった。
演目は、前プロがモーツァルトのオペラ『劇場支配人』とメインでチャイコフスキー交響曲第五番。
毎週の土曜日夕方の予定をすべてキャンセルしてオーケストラの練習に参加し、平日早く帰れる時は音が外に漏れる部屋では、周りの迷惑にならない様に消音器(音と消す器具)を付けて練習をし、遅いときは楽譜を見ながらCDを聴いていた。
そして毎週日曜日...。
”防音になっていて、ピアノの置いてある部屋がありますから、日曜日はたいてい暇なのでもし判らないところがあったら見て上げれるし、それにオケに誘った手前もあるので良かったら練習に来て下さい。”
そんな言葉を爽やかな笑顔で云われ、こうやって毎週澤口の部屋で練習をさせてもらい、まるで勤勉な学生の如くこの二曲と格闘していた。
何で引き受けてしまったんだろう...。
オケを引き受けてから何度も自問自答している言葉。
楽譜は読めないし、楽譜に書かれている記号は解らないし、何処の弦のどの位置を押さえるとどの音が出るのかも不安なのに...。
はぁ〜。
須藤はまた更なる深いため息をついた。
「少し休憩しませんか?」
ハッ!と我に返ると澤口が部屋の入り口に立っていた。
澤口の部屋は須藤の部屋から電車で一駅、車だと15分の所にあって、小綺麗な6階建てマンションの2F。
間取りは3LDK、二部屋を澤口の私室に、もう一部屋がピアノがある部屋だった。
六畳以上ある部屋の窓からは、外の光が一杯に入る大きめな防音の二重のサッシ、そしてピアノを守る様に日よけのカーテンがかかっていて、部屋の隅に小さな月桂樹のプランター、部屋の中央には高そうなグランドピアノが置かれ、小さめなダイニングテーブルと二脚の椅子があった。
須藤が練習しやすい様にダイニングテーブル横に譜面台と椅子を置いて、澤口はセットアップしていた。
「あ、澤口さん...」
「そう根(こん)を詰めても良くないですよ。休憩にしませんか?」
澤口は、持っていたトレーをテーブルの上に置き、ティーカップを差し出し、きれいに盛ってあるサンドイッチをテーブルに置いた。
「どうぞ」
「あ、有り難う御座います。でも、気を使わないで下さい。毎週お言葉に甘えてお邪魔しているだけでも申し訳ないんですから...」
クスリと笑い、澤口が大きめの目をぱっちりと開け首を傾げた。
「いえ、むしろ須藤さんに土曜日はオケをやらせて、こうやって日曜日にはここで練習をさせている俺の方が迷惑を掛けているんじゃないですか?」
「それは...」
もう一度澤口がクスリと笑った。
自分は他人に対してとても淡泊だと思っていた須藤は、澤口の様子に顔の温度が上昇して来るのを感じた。
あの時もそうだった。
オケ(オーケストラ)に誘われた時も、そしてオケを紹介した時も、その時の澤口の瞳を見た瞬間、こうやって顔が熱くなり体温が上昇し、結局断れなくなった。
「今日はイタリアンサンドにしてみました。お口に合えばいいのですが」
そう云って澤口は一口サイズのサンドイッチの乗った皿を差し出し、須藤はそれを一切れ取り口に運んだ。
「美味しい!これトマトとモッツァレラチーズですよね?本当に澤口さんってまめですよね。先週ごちそうになった和食の夕飯もそうでしたけど、こう云う軽食も上手いし、部屋も綺麗に掃除されているし...」
「そんな、ただ料理や掃除が好きなだけですよ」
頬を赤くし照れた様に澤口は下を向いた。
「でも、折角のお休みの日に本当にお邪魔してご迷惑では有りませんか?」
「いえ!掃除は趣味ですし。料理は一人で作って食べても味気ないですから」
屈託のない笑顔で澤口は答え、”それに、防音になっていてピアノもあるので良かったらうちで練習しませんか?と誘ったのは俺の方なんですから”と言葉を付け足した。
「実は俺、自分の中で矛盾が有るんですよ。オケに参加するのは時間を作らなくてはいけないから面倒だし、楽譜は難しいし、演奏は全然出来ないし、辞めたいなーとしょっちゅう思ってしまって、今でも物凄く後悔している...」
「須藤さん!」
「でも、でもちょっと楽しいんですよね。オケで曲を合わせている時とか、指は動かないし、ポジションも解らないし、楽譜読めないし、下手するとどこやっているのかも解らなくなってしまう。でも、なんか楽しいんです。オケも澤口さんと練習するのも...変ですよね、こんなの」
まるでマリア様の様な安らかな笑顔で澤口は微笑んだ。
「俺は、スタッフとして手伝っているだけですけど、それで良いんじゃないですか。楽しいからまた集(つど)いたくなるって云うじゃありませんか?この部屋で練習を誘った時にも云いましたが、俺が協力出来る所はしますよ。譜面とかで解らない所やポジションやその他で悩んだら、云って下さい。平日でも俺は結構早く帰って来てるので、いつでもいいですから須藤さんが良かったらここに来て下さい」
澤口の気持ちが嬉しかった。
「有り難う御座います。澤口さんに練習を見てもらって物凄く助かります。判りやすいし。もうびしばししごいて下さい」
「そうですか?じゃ一休みしたら、びしばししごきましょうか。あ、そうそう、さっきの最後の音は、Dじゃなくで半音上がるからDISだと思いますよ」
「え?そうでしたか?」
須藤は慌てて楽譜をテーブルに置き、”ここですよね?”と質問した。
「そう、ここ」
楽譜を指さしながら澤口は細かく楽譜を説明して行き、机に置いてあった鉛筆で楽譜に指の番号や半音の指示の印を入れて行く。
その説明を確認しながら、10cm以内の距離にあるさらさらの黒髪が気になる。
少しずつ自分の鼓動が早くなるのを須藤は感じた。
「こんな感じの方が弾きやすくないですか?」
澤口の問いが耳に入らないくらいに、心臓が口から飛び出しそうだった。
須藤の慌てた様子に澤口は首を傾げながら瞳をぱっちりと開いて微笑んだ。
あ...。
澤口の表情に軽い眩暈(めまい)を感じ、気づくと須藤は澤口の頭を右手で引き寄せて、澤口の唇に自分の唇を重ねていた。
そっと振れるだけの口づけだった。
須藤は、その薄く柔らかい感触に官能を覚え、澤口の下唇を甘噛んだ。
「ぁ...」
微かな甘い吐息が澤口の口から漏れ、澤口の唇が軽く開かれ、自らの舌で須藤の舌を導き、絡め(からめ)ていく。
お互いがお互いの官能を更に深いモノとしていき、須藤は一端唇を離し、席を立って澤口を自分の方に引き寄せ抱き締めた。
まるで何かの魔法でも掛けられた様...。
「す、須藤さん!! こ、これでは、練習に...、練習が出来ません」
突然の澤口の声に須藤はハッと我に返った。
「あ!」
澤口との深い口付けが須藤の脳裏をよぎり、羞恥心が須藤の全身を包み、”一瞬の気の迷いとしか云えない自分の行動”に、顔から火が出る思いだった。
「あ...ご...」
「お願いです謝らないで下さい。別に悪い事をされたわけじゃないでしょ?」
須藤の謝るのを阻止する様に澤口は間髪入れずに大きな瞳を開きながら首を傾げた。
「でも、澤口さんも男で俺も男で...、いやそれもそうだし、ましてそんな...あの...」
「じゃあ、俺が男じゃなかったらいいんですか?」
「え?いえ。え...あの...」
「冗談です」
「あ...」
「さー、まだ時間が有りますから遊んでいないで練習をしましょう」
澤口はさっきの事がまるで気にならないかの様にクスリと笑った。
何故だか、その笑いにほんの少しだけ寂しさを覚え、まだ冷めやらない自分自身を須藤は感じた。
「じゃ、練習しましょう。俺、伴奏弾きますよ」
「え?ピアノ弾けるんですか?」
「これでも音大出ですよ、少しぐらい。このピアノだって飾り物じゃないんですよ」
そう云われて須藤は澤口の事をあの学園の保父でオケのスタッフとしか知らないと事に気づいた。
「へぇ。聴きたいな...。澤口さんのピアノ...。で、でも、申し訳ないんですがちょっとトイレに行って良いですか?」
「え? あ! どうぞ、どうぞ」
澤口の”あ!”に悟られたな...?とは思ったが、この猛ったモノの始末をつけてからじゃないと落ち着いて練習も出来なかった。
トイレで用を足し、出ると微かなピアノの音が聞こえて来た。
リスト”愛の夢”。
「あ...」
音はピアノ室から聴こえてきた。
これって、保父とかと云うレベルではなく、その辺のピアニストよりも素晴らしい演奏だった。
澤口の奏でるピアノの音は、澤口の優しくて暖かいあの笑顔を思い出させるようなとても美しい調べだった。
須藤は澤口の邪魔をしない様にピアノ室の入り口のドアの外からそっとそれを聴いていた。
”愛の夢”...。澤口の見る愛の夢はいったいどんな夢なのだろう。
そして、澤口と交わした口づけ...。
いったい自分はどうしてしまったんだろうか。
眼を閉じると浮かんでくるあの澤口の笑顔、ただ流動的に手伝った餅つきやオーケストラ、面倒だと思いつつ続けている練習。
けれど、心のどこかでは、少しずつ楽しいと感じ始めているオーケストラ。そして、澤口との練習。
須藤自身の”愛の夢”はいったいどこにあるのだろうか...。
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