A Little Jack-in-the-Box〜ちっちゃなびっくり箱
第二話〜フォーレ 夢のあとに

「御願い!!須藤ちゃん!須藤ちゃんだけが頼りなんだ!!」
 パリ有名デザイナーの日本支社でチーフデザイナーをしている”真野 恵(めぐむ)”が、須藤が仕事をしている左隣の席の椅子に腰掛け、須藤の様子を伺うように覗き込んできた。
 東京の問屋街の立ち並ぶ街で大きくそびえ建つ生地の製造から服飾の製造、販売まで行っている繊維会社自社ビルの7F、そんな所に須藤の働くオフィス(部署)はあった。
 ワンフロア、ブチ抜きキャビネやローパーテーションで部を区分けしているそこの中央、向かい合わせに9台の机の固まったブロックの真ん中に須藤の席はあった。
 繊維の輸入販売業務をしている部が集められていてフロアの住人達は外回りが多く、フロアはいつも閑散としている。
 それを知っている真野は、内勤が多い須藤の所にいつも平気でなついてくるのだった。
 

「この生地が手に入らないと、こまるんだ!小売りあたってもらちあかないし、なぁ須藤ちゃん!!須藤ちゃんのご人力で何処かでこの生地、手に入れて!!」
 煩わしそうにパソコン入力の手を止め、須藤は真野の方を向いた。
 真野はひっくり返りそうな大きな瞳を見開いて、須藤を拝むようにして手を合わせていた。
「って云われてもなぁ。パリコレまで後一ヶ月半だろ、何で今頃...」
「ちょっとした手違いで俺がデザインしたメインのドレスを作り直さないといけなくなって、パリの制作のアトリエに頼んでもやってくれないし、日本で作るにしてもイメージ通りの生地が手に入らなくて、小売りや問屋に確認したら手に入れるのが難しいって云われてさ。可哀相だろー、だから見捨てないで、須藤ちゃん!」
 ”おいおい、勝手な事云ってるな。”そう呆れながら須藤はため息をついた。
 
 真野は、不思議な経歴の持ち主だった。親との約束で有名国立大学の法学部を主席卒業し、将来も保証されていたにもかかわらず、大学を出た後、単身パリに渡り、有名デザイナーの下でデザイナーとして働き、今ではそのデザイナーの日本事務所でチーフデザイナーとして働いていた。
 そんな真野との出会いは、2年前のパリ。そのデザイナーの本店で行われたアトリエコレクションだった。
 アトリエコレクションとはそのデザイナーがプレス向けにその年のデザイン傾向を発表するコレクションで、その時真野はまだパリで有名デザイナーの下で働いていた。
 須藤の会社とそのデザイナーとでデザイン提携をしていて、たまたまそのコレクションを見に行った時にフランス語の通訳として”真野”を紹介された。
 真野の印象は、真野が男にも関わらず”物語に出てくるお姫様”と云うやんちゃできかん気だけど何処か育ちの良い上品なイメージを感じさせるくらいの睫毛の長いパッチリとした瞳、ふんわりと柔らかい癖の入った薄茶色の髪、170cm弱で細りとした痩せ形のせいかスタッフの中にいると直ぐ埋もれてしまう。
 澤口が儚げで上品な深窓の令嬢なら、真野は甘やかされて育った何処かの国の末姫と云う感じなのだけれど、真野はそのイメージ以上に重たい布でも楽々持ち上げるパワフルさ、自分のかわいさを知っているかの様な押しの強さ、なんでもパリパリこなし、その勢いに須藤はいつもたじろいでしまっていた。
 そんな調子で、出会って以来真野は日本に帰ってきてからは特に、事有る事に須藤を誘って来る。
 もっとも、須藤の”来るモノ拒まず去る者追わず”の性格で二人とも気づいたときには良く一緒に”飲む仲”になっていた。
「しぁない...ちょっと確認してみる。確認取れたら連絡するけど、あんま期待すんなよ」
「よろしく(はあと)」
 真野は須藤の左手を両手で持ち頬ずりをする。
 ぞぉわぁ。
 須藤は寒いぼを立て”やめろー。”と叫びながら真野の手を振り払った。
 
 後一ヶ月半先には秋冬コレクション、パリ、ミラノ、NYそして東京で催されるコレクションシーズンに突入する。
 須藤の会社は大量生産用のデザインをデザイナーに依頼をする傍らでデザイナーのコレクション用の生地の発注も受けていた。
 真野の件はちょっと特別なパターンだが、この時期は生地の供給も終わり比較的忙しくない時期だった。
 そういう時期だからではないが、この後業務多忙期に入る前に曲を有る程度覚えておきたかったので、正直、これ以上仕事が増えるのは余り嬉しい話ではなかった。
 そう云えばオケ(オーケストラ)を初めてから、俺の生活が少し変わったような気がした。
 今までどちらかと云うとただ周りに流されて時間を使っていた。
 けれど、澤口とヴァイオリンの練習をする様になり、オケを始めてからは、家でヴァイオリンを弾く時間を考えて、仕事を最短で終えるようにし帰宅するようになった。
 そして、それもちょっと良い傾向なのかな...。なんて自分で思える様になり須藤は苦笑した。
 不思議とオケはまだ面倒だとちょっと(かなり)思っていたが、以前は練習する気も起きなかったヴァイオリンが今は毎日弾きたくて、弾くのが楽しくなってきた。
 それだけでもオケに誘ってくれて、俺のレッスンを見てくれている澤口に感謝しなくてはいけないのだろう。
 先週の日曜日の澤口とのレッスンで、自分の行った愚行を考えなければ...。
 はぁ〜。
 そう云えばちょっと前までのため息の原因は、オケを始めた事に対する後悔だった。
 しかし、先週の日曜日、何を血迷ったか澤口にキスをし、それも物凄いディープなキスを...、最近恋人ともしていないような...。そして俺は恥ずかしながら感じてしまったのだった。
 澤口が止めてくれなかったら、あの状況で俺は澤口を押し倒していただろう。
 静止した後、澤口は笑ってちょっとしたジョークとして流してくれた。
 しかし、あの日澤口が弾いていたあのピアノの調べ。
 澤口が弾いていた”愛の夢”、あの優しい澤口の笑顔が脳裏をよぎる。
 男と女ならこの気持ちを何というか知っているが、男同士でこの感情をどう呼んで良いのか持て余してしまう...。
 ま、今は真野に頼まれた生地を探さなきゃ...。
 須藤はもう一度深くため息を付て、社内内線表を掴んだ。
 

 気分がのっていない時は、すべてが悪い方に進むモノだ。
 そう澤口は思った。
 この最悪の気分をもたらしたのは、ホンの数十分前にかかってきた一本の電話から始まった。
 いつもの様に人の良い”さだまさし”ファンで有名な事務のおばさん”近藤さん”が笑顔で受話器を渡した。
「お電話ですよ。”西山さん”って方から...」
 ”西山?!”不意のそいつからの電話に驚きと、そしてこの後、何かが起こるような予感に不安を隠せなかった。
「はい、お電話変わりました。...今仕事中なので、...ええ、...仕事が終わるのは多分、夜8時くらいに、...迎えに来るって...でも!!...判りました...。では、後ほど」
 深いため息を付き澤口は受話器を置いた。
「どうしたんですか?澤口先生らしくないそんな沈んだ顔して、勧誘なら私が断って上げるわよ」
 澤口は苦笑しながら”そうで無い”という風に首を振った。
 表情からいつもの笑顔が消えたのを近藤は心配して声を掛けた。
 けれど澤口は口を引き結び笑顔を作り、何でも無いという顔をした。
「何か心配ごとがあったら相談にのるから...」
 澤口は首を横に振って笑顔で云った。
「有り難う御座います、大丈夫です。卒園式の準備でばたばたしていてちょっと寝不足なのかな?」
「それなら良いけど、何か辛い事が有ったら何でも云ってね」
「有り難う御座います。あ、明日の準備をしないといけないので失礼します」
 事務所を出て、二階の大きめの教室に向い、そして明日の準備をしようとしたが、先程の電話が気分を重くし、仕事が手に着かなかった。
 小さくため息をつき、気分を変えようと、その部屋の端に置いてあるグランドピアノの蓋を開き”フォーレ作曲 夢のあとに”を弾いた。
 保父を目指すときと決めた時に何度も弾いた曲。
 しかし、曲を弾き終わると、その曲を選んだことを後悔した。
 気分がのっていない時の自分のピアノがあまりにも情けなかった。
 この曲、”夢のあとに”は、フォーレが失恋をし、この曲を作曲して筆を折ったことでも知られているヴァイオリンとの二重奏。
 かつて”あるヴァイオリニスト”の伴奏を自分がやっていた時の曲。
 そして頭に浮かんでくる譜面は、自分の、ヴァイオリンの伴奏パートでしかなかった。
 澤口は、親の薦めで3歳からピアノを始め、子供の頃からピアノが好きで何かあるとピアノに向かい、弾くと気分が落ち着いた。
 それぐらいピアノと共に人生を歩んで来た。
 

「フォーレか...。相変わらず辛気くさい曲が好きだな、しずか」
「!!」
 西山 弘樹は、澤口の座っている椅子の背もたれに手を乗せ、椅子の背もたれを挟んで後ろから澤口を抱き締め、澤口の耳元で息を吹きかける様にそっと囁いた。
 澤口は耳に息が入り、躯に軽い痺れ(しびれ)を覚え、ぎゅっと眼を閉じた。
「俺が入って来た事も気づかない”その集中力”いいね」
「...」
 西山はクスリッと笑い、言葉を続けた。
「事務所のおばさんに訊いたら、”澤口先生”はここにいると教えてくれた。まあ、しずかの音は絶対に間違えないから直ぐ判ったけどな」
「...」
「8時になるのが待てなかったから...。8時に来て俺のお姫様が逃げた後だったら寂しいだろ」
 笑いながらそう云うことを平気で云う西山が澤口は嫌だった。
「...」
「しずかは変わらないな。プライドの高くて気の強いその気丈な瞳。俺と話すのが嫌?」
 西山は、澤口の顎に手を添え、口付けをしようとするが、澤口は思いっきり頭を右に振りそれを拒んだ。
「やめてくれ。冗談でも、そんな事するモンじゃない」
「久しぶりに逢った恋人に冷たいじゃないか、昔はそれ以上の事をしていた仲だろ」
「...」
「そうだな、お前は俺を振ったんだモンな。でも、俺はお前に云ったよな、”何年かかっても絶対にお前と組むって”こうやってヴァイオリニストとして海外で生活していても、俺にはお前が必要だ。離れていれば、離れているほどお前の音が、お前が必要なんだ」
「弘樹...」
「やっと名前、呼んでくれたな。よかった。しずかがピアノ止めないでいてくれて...」
 ハッとした澤口に西山は鼻でクスリと笑い、澤口の唇をかすめる様にキスをしてから踵(きびす)を返した。
「”お前の部屋”で待ってる。カギ変えてないだろ?じゃ」
 軽く手を振り部屋を出ていった。澤口はただ立ちつくしていた。
 

 弘樹...。
 ”西山 弘樹”との出会いは大学に入ったばかりの頃だった。
 コンクール入賞の常連で海外留学の経験もありソロでも活躍していた西山は、学内で将来を嘱望されたヴァイオリニストだった。
 その西山からある日レッスン室に呼びつけられ、伴奏を頼まれた。
 別に他に予定も無い澤口は、断る理由もなかったのでその申し出を受け、それ以来西山の出るコンクールやコンサートで西山の伴奏をし始めた。
 練習はもっぱら今澤口が住んでいる、西山の父親がバブルな頃に買ったと云うマンションだった。
 そうやって西山と澤口は、一緒に練習する内に気づいた時には友人以上の関係になっていた。
 西山のマンションで共に生活をし、何か特別な用事のない時は、西山の練習相手としてピアノ弾いているか、抱かれているかだった。
 澤口の大学生活は、そんな4年間だった。
 そして大学4年目の夏...。
 西山が学校を卒業したらドイツに行く事が決まった。
『しずか、一緒にドイツに来てくれ。これからずっと一緒に組んで演奏を、いや演奏だけじゃなく、生活をしないか』
 それは西山から澤口へのプロポーズだった。
 しかし、澤口は行かなかった。
 西山みたいに才能が有ったわけでは無かったし、それに、男同士でこんな関係をいつまでも続けられるわけがないと思ったからだった。
 しばらくして今勤めている幼稚園に就職を決め、共に暮らしていたマンションを出て、ピアノを止めると西山に告げた。
...。もう決めたんだ。ピアノに飽きたから...。この部屋を出れば、今まで嫌々やっていたピアノも弾かないですむし...。
『じゃあ、この部屋お前にやるよ。この部屋もピアノもお前がたまにでも、弾きたくなったら使ってくれ...その気が引けるなら毎月五万でしずかに貸すよ。それならいいだろ...。でも忘れないでくれ、何年かかっても絶対にお前と組んで演奏をする...だから』
 その後、何度か西山から連絡があったが、澤口は忙しいからとそれを断って西山とは逢わなかった。
 今更再会したとしても、何か変えられる訳ではないのだから...。
 それでも...大学4年間が楽しくなかったかというと嘘になるが...。
 

 気分がのっている時は、すべてが好調に進むモノだ。
 真野に頼まれた生地は、倉庫に問い合わせるとサンプル用に取り寄せたモノが、一反が手つかずで残っていた。
 早速伝票を出したのですぐに倉庫から社内便で送られて来て、明日の夕刻には真野に渡せる。
 急ぎの仕事が入らず海外市場のトラブルもなし。
 定時一時間半Overで急いで帰宅。
 今日どうしても、ヴァイオリンが弾きたかった。
 不思議と今日練習をしたら今まで出来なかった部分がすべて出来そうなそんな予感がした。
 オケに足を踏み入れる前の何となく”惰性でやっていたヴァイオリン”と”オケを始めてからの義務感でやっていたヴァイオリン”。
 今日の気分はそれとは全く別で、ヴァイオリンが弾きたくて弾きたくてたまらなかった。

 家に帰り着き、軽く夕飯を食べてから楽器を開きチューニングをし、澤口が買って来た指ならし用のエチュードを練習し、やっと楽譜を開いた。
 ”チャイコフスキー交響曲第5番”。
 焦らずゆっくりとオケでやるテンポの倍のテンポ(よーするに1拍で弾くところを2拍で弾く)でメトロノームを鳴らし、まず曲に指をならす。
 澤口はそう最初に教えてくれた。
 楽譜にはオケのコンサートマスター(ヴァイオリンのパートのリーダーで弦全体の弓順...上に向かって弓を使うとか、下に向かって弓を使うとか決める。詳しく知りたい方はメール下さい(音野談))が決めた弓順のアップ、ダウンに、澤口が追記してくれた指の番号、そして練習中に自分で記入した端書きが書かれている。
『楽譜に書かれている事を守ってテンポはゆっくりでいいですから、音の長さは確実に守って弾いて行くと、その内オケのテンポでも出来るようになりますよ』
 澤口のアドバイス通りにして楽器に弓をのせる。

 しかし、現実がそう簡単に行かないのも事実で...。
 今まで出来なかった所が花が開花するようにパーッと解るはずもなかった。
 CDを何度も聴いて曲を覚えたつもりでもその通りに出来ない。
 それどころかどんどん曲が解らなくなる。
 ため息を付き、テーブルに楽器を置き、その代わりにスポーツドリンクのペットボトルを取り、一口飲んでから大きく深呼吸をする。
 気づくと手に薄っすらと汗をかいている。
 それを膝の上に置いてあるハンドタオルで拭き、テーブルの上に用意してあるCDプレイヤーをかけ解らなくなった部分を聴く。
 何度か聴き、CDを止めて楽器を持ち、再度チャレンジする。
 何度やっても同じ所で曲が解らなくなる。
 きっと澤口に訊けば何で出来ないのか解る。
 そんな言葉が頭の中で浮かび、急に澤口のあの笑顔が恋しくなった。
 ”22:24”か...。
 この時間なら澤口も帰宅しているだろうし、コンビニか何かでアイスでも買って良かったらとか言い訳すればいいか...。
 慌てて楽譜と楽器を仕舞い、車のカギを持って部屋を飛び出す。
 ”解らないところが有れば遅くても10時くらいには帰宅してますからいつでも来て下さい。”
 澤口の好意に無性に甘えたくなった。
 
 
 澤口のマンション近くのコンビニでアイスクリームを買い、澤口の住むマンションに行くときにいつも使わせてもらっている駐車場に車を止め、2階に有る澤口の部屋へ行って、部屋のチャイムを何度か押した。
 しかし、そのチャイムに答える様子はなかった。
 マンションの下から澤口の部屋を見たときには、電気が点いていたから帰っていないはずは無いんだけど...。
 もう一度だけチャイムを押して、今度だめだったら帰ろうとチャイムに手を掛けた瞬間、開錠の音と共にドアが開かれた。
「はい、どなた?」
 ドアを開けたのは見知らぬ男だった。
 背が高く、がっしりとしていて余分なたるみのない体躯は服を着ていても解る。澤口がお姫様ならこの男はさながら騎士のようなそんな雰囲気があった。
「あ、夜分遅く申し訳有りませんが、澤口さんのお宅では?」
「あ、”しずか”の知り合い?まだ”しずか”は仕事から戻ってきてないんだけど...。ヴァイオリン?」
「え、あ、はい。澤口さんに練習を見てもらっていて、少し曲で解らないところがあったので澤口さんに伺おうと思ったんですが...。あ、また来ます」
 男はクスリと笑い笑顔で云った。
「中、入って待ってれば?もうじきしずか帰ってくるだろうから」
「え、でも」
「いいじゃん、俺も暇だしさ。さ、どうぞ」
 その男は、澤口の部屋をまるで自分の部屋を案内するように招き入れ、リビングに俺を案内すると”ちょっと座って待ってて”とキッチンに消えた。
 状況を飲み込めずに須藤はソファーに座った。
 何者なんだろうか?澤口の家族か友達...。
 そう云えば須藤は澤口が”保父”で”オケのスタッフ”をやっていて、”ピアノが上手く音楽に詳しい”と云う事くらいしかしらなかった。
 もちろん普通そこまで知っていれば友達付き合いするのには、十分なのだろうが、ただ何となく少しだけ寂しさが心に溢れていた。
 

「コーヒーで良い?」
「あ、本当にお構いなく」
 その男はテーブルにカップを2個置いた。
「なあ、君...」
「俺、須藤 寿晴です」
「須藤さんもヴァイオリンやってるんだよな?」
 須藤は恥ずかしそうに照れ笑いをしながら返事をした。
「ええ、まあでも始めてまだ3年ちょっとなんですけどね...」
「”しずか”が教えてるの?ヴァイオリン」
「”しずか”...?あ、いえ、澤口さんが勤められている幼稚園でやっているヴァイオリン教室に通っているんです。それで、澤口さんに澤口さんが手伝っているこの地域の区民オーケストラでやってみないかと誘われて、1ヶ月前から参加してみたんですけど...。けれど出来ない所だらけで、澤口さんに練習を見てもらっているんです」
「”しずか”がそんなまめな事するなんて意外だな...」
「あの、失礼ですが...」
「あ、ごめん自己紹介遅れて。俺、西山 弘樹。しずかとは大学が同じだったんだ。まあパートナーって感じかな?」
「じゃ、ピアノを?」
「いや、俺はヴァイオリン」
「へぇ。今もヴァイオリンをされているんですか?」
「俺? 一応ヴァイオリニストしてるんだ。今はドイツのオケにいてさ」
「す、すごいんですね」
「あ、そう云えばさ。曲、判らなくて煮詰まってるって云ってたよね」
「ええ、まあ、何度やっても出来なくなってそのうち訳解らなくなって...」
「ちょい楽譜見せてみ」
「でも」
「俺が見てやるよ。しずか帰ってくるまで暇だし。ほら俺さ、一応ヴァイオリン出来るから」
「でも」
「いいから、ほら」
 須藤は戸惑いながら楽譜を出し、西山は優しい笑顔でそれを受け取った。
 

 家に帰るのがこんなに気が重いなんて思ったことがなかった。
 弘樹が家で待っている。
 三年間離れていてもう気持ちの整理が着いていると思っていた。
 再会しても何を話せばいいのか解らない。逢いたくなかった...。
 お代わり自由なドーナツ屋の薄いコーヒーでもう何時間ねばっているのだろうか。
 携帯をチラリと見て澤口は、ため息を付いた。
 こう云う時の逃げ場が無いのは辛い。”せめて”と思い、須藤さんの携帯に”飲みに行かないか”と誘いの電話を入れたが、留守番電話になり連絡がほしいと伝言を入れた。
 平日は仕事で遅いと云っていたが、須藤は今日も残業なのだろうか。
 時間を潰すのに自分には飲みに行く友人もいない。
 そう考えると寂しさが募ってくる。
 こんな思いをするならあの時、引っ越して何処か遠くへ行けばよかった...。
 もう一度大きなため息を付いて澤口は家路に向かった。
 

 マンションの下から自分の部屋に電気がついてる。
 やっぱり弘樹が中で待っているんだ...。
 電気が点いているのが弘樹がいると云う証拠だった。
 ため息を付き、重い足取りで部屋のドアの前まで向かう。
 しかしドアを開けようかどうか悩んでしまう。
 澤口は大きく深呼吸をし、両手で頬を思いっきりたたいて勢いを付けてドアを開けた。
「ただいま!!」
 返事はなかった。
 リビングから大きな楽しそうな声が聞こえる。西山と...まさか!
 声の方へ、リビングへ慌てて行くと、西山とそして須藤が楽しそうにウィスキーを酌み交わしていて、二人の周りにはビールやワンカップの空瓶が多数散乱していて、机の上や絨毯の上におつまみが散らばっていた。

「な、何やってるんですか!!」
「あ、お帰りしずか〜。待ってたよ」
「お帰りなさい。遅かったですね、澤口さん」
「しずかに気安く話しかけるな!須藤」
「ひっどいなー」
「いいんだ俺のしずかだから!!それよりしずかが遅いからドイツから買って来た特上の酒、開けちゃったよ〜。須藤に飲ませるのは勿体ないと思ったけどな」
「ひっどい」
 弘樹はすでにべろべろに酔っぱらっていて、呂律が回っていなかった。
「まだ残ってますから澤口さんもどうぞ」
 須藤の方はまだ正気そうに見えたが、グラスになみなみとついだウィスキーを氷も入れずに差し出して来た様子からかなり酔っていることが伺えた。
「おーしずか。駆けつけ一杯!!」
「くーっといきましょー」
 澤口は状況把握できないまま渡されたグラスの酒を一気に飲み干した。
「流石酒豪のしずかちゃん、お顔もほんのり色付いてプリティだね〜」
「澤口さんとっても色っぽいですよ!」
「しずかは俺のモノだ〜。須藤気安く話しかけるな〜」
「いえ、先程も云いましたが、澤口さんは俺が預かりました。西山さんはロシアでも中東でも何処へなりヴァイオリンの演奏しに行って下さい」
「ドイツだ!しずか、俺と須藤とどっちを選ぶんだ!」
「そうですね。澤口さん決めて下さい」
「何を馬鹿なこと云ってるんですか!二人ともいい加減にして下さい!!俺の事よりまず、この状況を説明いただけますか!」
 澤口は二人の酔っぱらいに怒鳴った。
「おこっちゃいーやだ。しずかちゃん」
「そうですよ。楽しみましょ!さ、澤口さんも!西山さんなんて放っおいて!」
「何だとー」
 二人ともできあがっている様子で何を云っても聞かなかった。
 暖簾(のれん)に腕押し。糠(ぬか)に釘...。そんな状態だった。
「しずか、つまみ〜」
「あ、俺がなんか作ってきますよ。確かさっき冷蔵庫にイカがあったから焼いてきましょう」
 須藤が急に立ち上がろうとしてよろけ、澤口が慌てて支える。
「大丈夫ですか?須藤さん」
「あ〜大丈夫、大丈夫。へ、へ、ちょっとつまずいちゃった」
 口ではヘラヘラ笑いながら平気だと云っているが足はかなりちどっていた。
 周りに転がっている空瓶の数。これを二人で飲んだとしたら、かなりの量を飲んでる様子だった。澤口は首に手を当てて大きなため息をついた。
「もういいです。イカ焼きですね、今作ってきます」
「あ〜すまないね、しずかちゃん。愛してるよ」
 弘樹はカーペットの上にふんぞり返って酒瓶を抱き締め、目を虚ろにしながら云った。
 こめかみの辺りに痛みを感じながら澤口は、大きくため息を付いてキッチンへ向かった。
 今まで悩んでいた俺の時間は何だったんだ...。
 この二人の様子に怒りが沸々と沸いてきていた。
 西山となんでよりによって須藤が飲んでいなければいけないのだ。
 それもあんなに楽しそうに!!
 怒りに震える右手を押さえながら、キッチンに入ると中は泥棒が入ったのでは無いかと思われるほどの荒れようで、心配して冷蔵庫を開けると、昨日買って置いた食材どころか中身全てが見るも無惨な状態だった。
 それでもイカ焼きを作ってしまう自分に情けなさを感じながら、あの二人の前でとにかく冷静になろうと誓った。
 しかし、須藤がいなかったら今西山と二人きりの時間を過ごせたのだろうか。
 そう考えると須藤の存在がとても有り難かった。
 イカの下ごしらえをし、フライパンにのせ、ふと気付くとキッチンの入り口に須藤が立っていた。
「す、須藤さん...」
「あ...いや、あの」
「どうしたんですか?もうすぐイカ焼き出来ますよ」
「澤口さんの留守に勝手にお邪魔してすみません。曲の解らない所があって澤口さんに訊こうとここに来たら、西山さんが中で澤口さんを待てと誘ってくれて。
西山さんに最初は曲を見てもらってたんですけど、なんか気づいたらこんな感じで。すみませんね」
「そんな...」
 澤口は苦笑した。
 本当は須藤がいてくれて助かったんだ。そんな緊張の糸が切れたように感情が澤口の涙腺を刺激し、涙が溢れてきた。
 そんな自分に耐えられずに澤口は須藤の胸に頭を付た。
「す、すみません。ちょっとだけ...」
 須藤の両手が澤口の肩に掛り、澤口はそれがとても優しく感じられた。
「...助かりました。須藤さんがいなかったら...」
「澤口さん...」
「ごめんなさい。須藤さん明日も仕事なのに」
「澤口さん、俺、事情は知らないけど、西山さんはおもしろう人だし、こんな酒盛り、学生時代以来で楽しいです。だから澤口さんも...」
 須藤の暖かな言葉に今まで張りつめていた緊張感が癒されたのか、しばらくすると涙が止まった。
「あ、有り難う御座います...。さ、イカが焦げちゃう」
 そう云って須藤から離れて、ガスレンジに向かった、澤口はいつもの笑顔を須藤に返した。
「あ、俺、西山さんの様子見てきます」
 須藤は澤口の気持ちをさっしたのか、リビングへ消えていった。
 須藤さん...。澤口の心に暖かいモノが流れていくのを澤口は感じていた。
 

 イカ焼きを作っている澤口をキッチンにおいて、須藤がリビングに戻ると静かに一人で酒を飲んでいる西山の隣に腰掛けた。
「イカ焼き...。もうじき出きるそうですよ」
「ああ、須藤さん...」
 何か考え事をしていたのだろうか、声を掛けて初めて隣に座った事に西山は気づいた。
「須藤さんは、しずかと...」
 西山は云い辛そうに言葉を一端きり、もう一度息を吸ってから続きを話し始めた。
「俺は、大学のレッスン室で初めてしずかの弾いているピアノの音を聴いた瞬間に、恋に落ちた。変な話なんなんだけど...ね、俺ゲイなんです。こうやってストレートのやつ...普通の恋愛感覚のあるやつに話すのは本当に久しぶりだけど...」
「西山さん...」
「大学に入る前からゲイの気があった俺は、しずかを知って自分のモノにしたかった。しずかの優しい笑顔もその心があらわれるようなピアノの音色も全て愛しかった。大学を出て、ドイツで暮らしている3年間、ずっとしずかが忘れられなかった。自分の音色は忘れてしまっても...」
「...」
「俺今、ヴァイオリンが弾けないんですよ。何を弾いても音にならなくて、ヴァイオリンを弾くのがこんなに苦痛だなんて思ったのは久しぶりで、ドイツにいても気が滅入るばかりで、日本に、しずかのいる日本に帰って来た...」
 言葉を止め、西山はグラスの中のモノを煽った。
「俺はしずかに一緒にドイツに来るように頼みに来た。しずか無しだと俺はどうして良いのか解らない。須藤さんは、しずかの事どう思ってるんですか」
 西山は多分ふざけてこんな告白を俺にしてるんじゃないだろう。
 俺も真剣に...、確かに澤口さんに欲望を覚えた。しかし俺は澤口さんの事をどう思っているのだろうか?
「正直、解らないです...。澤口さんも俺も男だし」
「...」
「でも、友人としてなのか、解らないですが。澤口さんと離れたくないです。いつも澤口さんと一緒にそして、澤口さんの全てを見てみたいです」
「...」
「西山さん?」
 西山が居眠りをしながら呟いた。
 ”あれは俺のだからね...”
 その後西山はどうやら眠ってしまったらしかった。西山は澤口を心から愛しているんだろう。
 でも、俺は...。
 煮え切らない自分を持て余しながら、睡魔は俺を優しく包んだ。
 
 


 つづく
 
 次回予告
 須藤ににとっての澤口への思いは?
 澤口は西山とドイツに行くのか...それとも...。
 ある日突然澤口から渡される西山と澤口のデュエットコンサートのチケット。
 そして自分の音がつかめない西山は...。

 次回
最終回(多分...)
A Little Jack-in-the-Box〜ちっちゃなびっくり箱
お楽しみに!!!
 

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