2002/12/14
Aquarium〜現実主義者は見る夢を〜
 
第一章
5.閉鎖した研究室 10:15p.m.
 そこはかつて世の中すら左右する、と噂された研究室だった。
 元々は某大学の秘密生物研究所だったここは、横浜市内とは感じさせないほどの森の様な樹々に隠れて、ひっそりとたたずむ化け物屋敷そんな印象を受ける所に建っていた。
 そして一年前に起こった火災。
 それが引き金となり研究室は閉鎖され、今でも修復されずに黒く爛れた壁の幾つかが、生々しさを残っていた。
『しかし、これじゃ王子の来るのを待ってる眠り姫の居城って感じだな…』
 誰も来ないのをいい事に、車を空き地に乱暴に止め、それから降りると不気味な程に静かな建物を見つめ、大塚はそうぼやいた。
『住んでるのは古城の美姫は美姫でも、既に魔女になってるがな…』
 そう付け足すと、ポケットから煙草を取り出して火を点けた。
 今は一人しかいない研究所。
 研究の中止を確証させるかのように起こった火災は、ここの主任職員、橘 貴文当時三十二歳が、灯油をまき、今までの研究データを共に自殺をしたのだった。
 データが全て燃えかすになり、それをきっかけに研究の中止された今では、かつてここの所長だった博士の息子が、後処理をするためにここに通うだけで、後は誰も訪れたりしない。
 そんな所だった。
 中に入ればその色はなお一層濃く感じられ、燃え残った部屋のテーブルには埃を被らないように白い布が掛けられているが、それでもその上にはうっすらと埃が被り、子供の頃にやった肝試しの理科室を思い浮かべられるようにまで、鄙びてしまっていた。
 そんな薄気味悪さしか感じさせない建物を、銜え煙草で大塚はずんずんと進むと、その研究所の奥にある唯一電気のついた部屋へたどり着いた。
 そして今はただ一人になったここの、あるじ主を見つけた。
 主は大塚が来た事など全く気付かないように、ただ忙しなく立ち上がって、机の上を片づけているようだった。
 自分に気付かない様子に、大塚はニヤリといやらしく笑うと、銜えていた煙草を埃の被った机に押しつけ、後ろから愛おしい恋人にするようにぎゅっと抱きしめた。
 今にも折れてしまいそうな華奢な躯。
 そして真っ白な首筋に唇を落とす。
『スイ…、逢いたかったよ…』
 そんな言葉と共に…。
 かつてこの研究所が多くの研究員で華やいでいた頃ここをまとめていた上村教授の一人息子。
 そして現在唯一のここの管理をしている人物…、かみむら上村 すい翠、スイ…。
 吉川のお供で大手製薬会社へ行き、そこで懐かしい月の写真を見付け、その持ち主とこの不気味な研究所の主であるスイの話を大塚はした。
 事情聴取を終え、吉川と別れると一旦家に戻り、そして自分の車でここを訪れた。
 いつ見ても不気味なここも、何度も来ている内に目隠しでも歩けるほどに大塚はなっていた。
 大塚はスイの首筋に何度も音を立てて、欲望を煽るように唇を落としながら、後ろ向きの青年の腰に自分自身を擦り付け、耳朶を舐りながら訊ねる。
「だーれだ?」
 抱きしめられた青年はフッと鼻で笑うと、無言のまま大塚の脇腹に肘鉄を入れ、そして大きく溜息を付く。
「あなたも飽きない人ですね…、大塚さん」
「お前を見て、むらむら来ない男なんて、いないさ。なぁスイ…」
 叩いても離さないどころかシャツのボタンに手を掛けていく大塚の腕に、呆れたようにスイはもう一度大きく溜息を付く。
「同性に…、男に好かれても全然嬉しくないんですが…」
「それだけの美貌の持ち主が何を云うんだい?」
 そう云いながら大塚は首筋にちゅっと音を立て唇を落とし、片手で胸の飾りを弄りながら、もう片方の腕でスイの少し長めの色素が薄いストレートの髪をサラサラとすく。
 確かにスイは作られたお人形の様に美しい男だった。
 様々な事情で普通とは全く異なる育ち方をしたスイは、一度逢ったら忘れる事の出来ない程の美貌の持ち主で、雪白のごとき肌と、色素の薄い茶色の切れ長の瞳と薄く煎れた紅茶色の髪の毛。
 身長は176cmあるけれど、あまり運動はする機会がなかったせいか筋肉は付いていないが、摂取カロリーと、栄養を計算されたつくした食事をずっと取っていたお陰か贅肉も一切付いていない。
 二十二歳になった今でも、今にも消えて無くなってしまいそうな儚げな雰囲気を思っていた。
「いい加減その腕、解いて頂けますか?それじゃここ片づけが出来ないんで…」
 これ以上怒らせると魔法でもかけられハムスターか蛙にでもされるのではないかと、思わせる誰が聞いても冷たさがはっきり感じられるテノールの声で、スイに拒絶された大塚は諦めてゆっくりと腕を解いた。
「どうしたんだ?片づけなんて…」
 行動を邪魔する腕が離れ、嘆息しシャツを整えるとスイは机の上の書類を分け始める。
「やっと買い手が付いたんで、ここを売り払うんです。だからここに来てももう誰もいませんよ…」
「それは、それは…。お前はどうするんだ?スイ」
「なんであなたにそんな事、云わなくちゃいけないんですか?」
「冷てーな、俺とお前の仲だろう」
「そんな仲になった覚えは全く無いんですが…」
 スイは机の上の書籍を手早く片づけながら、嫌そうな顔をして大塚を見た。
「冷たいね〜、でもま、そこがいいんだけどな」
 いやらしそうにニヤニヤ笑っている姿に、更に不快感を感じたスイは無言で大塚を睨み付けた。
 しかし、大塚はそっとスイに近づき肩を抱くとサラサラの髪の毛を愛しそうにすく。
「で、本当の所どうするんだ?一応俺だってお前の事が心配なんだぜ…」
「大塚さん…」
 スイは一旦片づける手を止め、大塚からすっと逃げると、そして煩わしそうにスイは深い溜息を付く。
「しょうがないですね…、結婚するんですよ。ここもやっと片づいたし、資料も有りませんから、僕もここにいる必要が無くなりましたしね…。これで晴れて自由な身です」
 普通の人間とは全く違う生き方をし、色々な思いを秘めてここに住んでいたスイを知っている大塚は、目の前で幸せそうに微笑んでいる姿が眩しいくらいに感じられた。
「そりゃあ良かった。おめでとう」
「有り難う御座います。だからもう相談持ちかけてきてもダメですよ」
「そんな冷たい事云うなよ、スイちゃん」
 照れたように目線をそらしたスイを後ろから首に腕を絡めるようにもう一度抱きしめて、キスをしようと顎を押さえた。
 しかし直ぐにいつもの表情が伺えないすましたスイに戻り、その手をぴしゃりと叩いた。
「そんな風に甘えてもダメですよ」
「冷たい事云うなよ。あ、それより誰かのものになる前に俺と一発…」
 眉間に皺を寄せスイは大塚を睨む。
「何度もお誘い頂いて申し訳無いんですが、あなたと出逢う五年も前から、結婚を約束をしてるんです。心も躯もその人のものですから…」
 そうきっぱりと云い放つ姿に、大塚は安堵の笑みを浮かべた。
「愛されてるわけだ、木下ってやつは…」
 スイの手元にあった本が、音を立てて下に落ちた。
 表情は相変わらず張り付いたようなポーカーフェイスだったが、落ちた本がまるでスイの気持ちを表すかのようだった。
「おや、どこからそんな情報を?」
 スイは何もなかったようにゆっくりと本を拾い、大塚は思っている事がはっきり判る態度に思わず笑みを浮かべる。
「ま、一応警察にいるからな」
「情シスの"お巡りさん"ですか?」
「そ、だからどんな情報も俺にお任せ!!ってね」
 まるで全てを掌握しているようなふてぶてしい笑いをしている大塚を、悔しそうに見つめスイはいささか呆れたように息を吐いた。
「それで、僕を脅そうとでも思ったんですか?暇人ですね〜」
「よく判ってるじゃん、さっすが俺のスイ。まあ、暇人ってのは心外だけどな」
 もう一度溜息を付いて、片づけている手を今度は本格的に止めると、適当に机の上のものを寄せて腰を掛ける。
「"俺の"って云うのはよく判らないですが…。だいたい、どこからその情報を手に入れたのか、御教授頂きたいですね…」
 スイはゆっくり長い足を組んで微笑む。
「それを教えてくれたら、考えても良いですよ。協力するかを…」
 ニヤリと大塚は笑みを浮かべて、今日仕事で赴いた所で、月の写真を愛おしげに飾っている男の話をした。
 それを聞くと、美しい鼻梁を歪めてスイは、呆れたようにもとれる溜息を、もう一度深く吐きながら薄い唇を尖らせる。
「…。ニュースソースが当事者って云うのは、ずるいような気がしますが…。でもその辺があの人らしいかな…」
 木下の事を思いだし、スイは今まで大塚が見た事がないほどの柔らかな笑顔を見せた。
 この研究所から離れる事が決まり、スイにも余裕が出てきたのだろうか…。
 しかし、その辺の質問をしたとしてもスイはきっと何も答えず、ただ笑うだけだろう、と大塚は思った。
 直接出逢う前からスイがやっていたHPを知っていた大塚は、火事の捜査に借り出され、たまたまPCの壁紙に使われていて、木下の机の上にも飾ってあった月の画像を見た時に運命を感じた。
 一目惚れに近い気持ちで大塚は、無機質な魅力を持った、人間の匂いを全く感じさせないこの青年に惹かれていった。
 そう、特別な運命を背負って生まれてきた目の前の青年に…。
 以前、誘導尋問のような形で、強引に聞き出した内容でしか大塚もスイの事に関しては知らなかった。
 その時にスイは、生まれてから去年の火事が起こるまで、自分は”国家のトップシークレットに属していた…”、と寂しそうに笑って語っていた。
 その時の捜査資料にも、火災を起こした研究所の実体は具体的に書かれておらず、ここで何が起こっていたかは、今ではスイ以外知るものがなかった。
 ただ人から聞いた噂では、何かの事故の影響を受け突然変異で生まれてきたスイが、様々な実験の研究材料されていた化け物だ、と聞いた事があったが、実際は判らなかった。
 そんな謎の青年が残念な事に、様々な問題に整理が付いたのを物語るように、この青年はどんどん奇麗になっていく姿に感じ、それはスイの春の訪れだと何となく判った。
「で、今回の事に協力すると、大塚さんは新しい門出を祝福してくれるわけですね?」
「ま、そう云う事かな?多分…」
 "多分"と云う言葉が腑に落ちないのか眉間に皺を寄せるが、降参したとばかりに両手を上げる。
「判りました。ま、お逢い出来る内に火災の時の恩は返して置きたいですしね…」
「お、律儀だな…」
 一年前の火災。
 橘は元々はスイの父親の助手をしてい男だった。
 スイを産んで亡くなった母親と、研究に没頭していたため家に全く帰らずスイが十五歳の時の無くなった父親の上村博士。
 スイの保護者であり、上村博士の後を引き継ぎ研究を続けていた。
 しかし、スイが成人した日、研究所に火を放ち、この研究所のデータと共に、炎の中に消えていった。
 その火災後、この研究所で残ったデータを全てチェックし、少しでも復旧出来るものが有れば残らずしろ、と上司から命令を受けて、大塚はここに初めて訪れた。
 火災で無事だったHDや記憶媒体を見ると、まるで誰かが目にするのを避けるように見事にデータ消されていた。
 その炎で焼かれた残骸で、何人も派遣されていた捜査員は何も見付けられなかった中で、大塚はたまたま橘教授がスイのために暗号化して残したデータを見付けてしまった。
 しかし、その時に大塚はわざと上司に報告せずに、スイにそのデータを渡した。
 遠巻きに伝わってきた政府の圧力みたいなものが、納得出来なかったからだった。
「あの火災は…、僕の所為ですから…。橘さんを自殺にまで追い込んだのは、誰でもなく僕ですからね…」
 あの時そう苦しそうに呟いたスイが、たまらなく美しかった。
 研究所の火災の原因は、公にはノイローゼ気味だった橘教授の自殺だったが、本当のところは一介の捜査官には伝えられなかった。
 しかし、そのデータが全て消え去った火災がきっかけで、スイには転機が訪れた。
 特殊な環境で育ち、その為に自由を持たなかったスイは、子供の頃から保護者代わりだった大切な人間…、橘教授の死によって、自由を手にしたのだった。
 もしかしたらその為に橘教授はこの自殺劇をやったのかも知れなかったが…。
「ま、あれは事故だって、心神耗弱で教授は研究所に火を放ち自殺した。捜査書類でもそうなってるし…。スイは研究所とは全く関係なかったんだから…」
「まあ、公になってはまずいですからね…、人体実験をしていたんですから」
「そう云うなって、あれがなきゃお前だって、自由にはなれなかったんだから…。つう事でコレ宜しく」
 しんみりしている雰囲気を壊すかのように、笑顔で大塚はCDRを二枚渡した。
「何ですか?」
「今、噂の『ラLa ウィvie アンen ローゼRose』…」
「ウィルスを持っているんですか?」
「いや、これはそれが落とされる寸前のPCのデータと、復旧前のウィルスで死んだ後の残像…」
 期待を裏切られたようにスイは頭をかくんと下げながら"で?"と訊ねる。
「まあ、そんなにがっかりしないで…。で、欲しいのは、『La vie en Rose』と前後に起こった事…」
 あまりに他力本願過ぎる発言に、スイはこめかみを押さえる。
「これで、何を調べろと?まさかウィルスの履歴だけで解読しろと?」
「そ、La vie en Rose…、バラ色の人生の謎に迫ってね。スーイちゃん」
 大塚は楽しそうに笑ってポケットから煙草を取り出すが、喫煙を拒むかのようにきつい瞳のスイが口を尖らせていた。
 しかし、そんな事に全くお構いなしで、一瞬横目でちらっと睨んでいるスイを見ながら、平然と火を点け、ゆっくりと味わうように紫煙を吐き出す。
 すると煙に苛立つように咳払いをするが、それでも止める気のない姿にスイは、プッと頬を膨らます。
 そんな可愛い姿を見せられ大塚は"これ一本だけだから…"と云い訳をし、スイも諦めまた片づけを開始した。
「まあ…、どうなるか判りませんが…、これが最後ですからね…、何とかしましょう」
「お、優しいな。ど、結婚する前に俺といっぺんやりたいとか思わない?」
 じとりとスイは大塚を睨むと、今日何度目かの溜息を付いた。
「あなたはそれしかないんですか?そのうち捕まりますよ!!」
 苦笑しながらスイはディスクを受け取り、事件の概要を何か云いたげににやにや笑う大塚から聞いた。
 そして全てを把握するとぼそっと呟く。
「なんか、変な話ですよね。実はその犯人はその美人な脚本家さんを狙ってるストーカーだったりしてね…、そんな事ないか。大塚さんじゃ有るまいし…」
 
『石屋を…』
 薬品の爆発事故の影響を受け、生まれた時からIQ200以上も有る天才にそう云われ、大塚はもう一度撮影現場に行きたいと思わずにはいられなかった
 
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